2021年11月11日に、ハムスターのNintendo Switch/プレイステーション4用ソフト『アーケードアーカイブス リブルラブル』が配信を開始した。本作はナムコ(現バンダイナムコエンターテインメント)が開発し、1983年に稼動していたアーケード版『リブルラブル』の復刻作品で、家庭用ゲーム機への移植は2009年のWii(バーチャルコンソール)版以来となる。

『リブルラブル』はどんなゲーム?

 『リブルラブル』は、2本の8方向レバー(※)で魔法の道具“リブル”と“ラブル”を操作し、畑を守ることが目的のアクションゲームだ。リブルは左向きの赤い矢印、ラブルは右向きの赤い矢印のような形状をしており、互いを結ぶラインで敵を囲んで倒すことができる。この囲む行為は“バシシ”と呼ばれ、外壁を利用してバシシしたり、小さくバシシしてラインの位置を調整するなど、さまざまなテクニックが存在する。

※『アケアカ』版はアナログスティックなどで操作可能。

企画時のタイトルは『ポテト』!? 『リブルラブル』当時の開発陣へ一問一答11連発&秘蔵の企画書を大公開!
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 『アケアカ』版の配信日となる2021年11月11日には、ハムスターが運営するニコニコ生放送“第334回 アーケードアーカイバー リブルラブルスペシャル!”にて本作が紹介された。同番組にはバンダイナムコエンターテインメントの宇出津和仁氏がゲスト出演し、アーケード版『リブルラブル』の開発を当時手掛けた岩谷徹氏、佐藤誠市氏、黒須一雄氏にヒアリングした11の質問への回答を紹介した。

岩谷 徹氏(いわたに とおる)

アーケード版『リブルラブル』で企画・プロデューサーを担当。

佐藤誠市氏(さとう せいいち)

アーケード版『リブルラブル』で企画・ディレクターを担当。

黒須一雄氏(くろす かずお)

アーケード版『リブルラブル』でプログラムを担当。

 ニコニコのプレミアム会員ならタイムシフト視聴(※)が可能なので、番組内容が気になる方はチェックしてみよう。

※タイムシフト視聴期間は2021年12月2日23時59分まで。

ハムスターチャンネル(アーケードアーカイバー視聴ページ)
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番組内では、2021年11月25日に『アーケードアーカイブス フォゾン』が配信されることも発表された。

当時の開発陣に聞く11の質問

 生放送内では、当時を知るクリエイター陣の貴重な回答が読み上げられるたび、視聴者のコメント欄が大いに盛り上がっていた。本記事では、番組内でピックアップしきれなかった回答も含めて全文掲載する。じっくり読んでほしい。

※質問ごとに各人のコメントをまとめて併記していますが、個別に回答をいただいているため一部重複した内容があります。ご了承ください。

Q1 ナムコ入社は何年ですか?

岩谷1977年(昭和52年)4月に入社。社名は株式会社中村製作所で同年6月に株式会社ナムコに社名変更されました。

佐藤1980年4月入社。ちなみに同期入社組には多摩川分室の開発に以下のメンバーなどが在籍していました。

  • 大野木君:『マッピー』のプログラムと音楽、勿論『リブルラブル』の音楽や効果音を作成。
  • 池上君:『ディグダグ』の企画、『ゼビウス』の前身の『シャイアン』の企画をやりサハラ砂漠単独バイク横断した。
  • 佐藤茂君:『ゼビウス』のハード等のハード屋さん。『ゼビウス』のハードについて打ち合わせを行ったが半日かけて両者が同じことを言っていたことに気付く。企画とハードでは使う用語が違うということをこの時に思い知る。
  • 吉原さん:マーケティング関連の部署、のちにリブルラブルの社内モニター調査やロケテストでお世話になる。また『リブルラブル』の名付け親でもある。
  • 倉澤先生:同期なのになぜか先生と呼ばれていた。岩谷さんがリーダーを務める「未来商品開発プロジェクト」の唯一のプロジェクト員。

黒須1979年4月。

Q2 入社時の配属先と役割を教えてください。

岩谷開発部開発課に配属となり、企画、アタリ社のコンピュータ基板の修理、知的所有権管理などを担当していました。

佐藤当時は3ヵ月ほど営業研修というのがあり本社営業部や地方の営業事務所で研修を行いました。

 私は本社の営業二課研修となり、4月はロケ研修、横浜三越屋上、経堂ジョイフル、新宿ニュースター、上野キャロットなどの店員・店長をやっていました。

 5月に東京西事務所に移り機械の搬入などの作業等を行っていました。
 
 6月には突然呼び出され、池上君ともうひとり同期の小山君の3人で「管理会計システム改善委員会」という部署に配属されました。場所は矢口渡にあるマンションの一室でした。すぐに綱島のサービスセンターと商品センターでの伝票調査などに回されました。出荷前の『海底宝探し(外部委託)』をやったり、ジャンボドラえもんがトラックで出荷されていくところなどを見ていました。

 7月から多摩川分室の開発部開発課企画係に配属されました。沢野係長以下横山主任・岡本進一郎さん・池上君・私でビデオゲームの企画に携わることになりました。

 最初の仕事といえば電話を受けることぐらいでした。あるときから池上君と電話にいかに早く出るかの競争になりました。音が鳴ってからでは遅いのでランプが光るや否や受話器を取っていたらよその部署からお怒りのクレームが来ました。発信音がしないうちに電話がつながるので心の準備ができないので困るといった内容です。その後、流行したテレクラでいかに早く電話を取るかの競争をふたりで遊びとしてやっていた感じです。

 仕事らしい仕事といえば『ニューラリーX』で横山さんが作った地図をデータに落とし込んでミニコンに入力したことです。その後、『ギャラクシアン』、『パックマン』、『ラリーX』の基板を利用してROM交換できるゲームの企画を考えるという仕事を行いました。それが以後紆余曲折を経て『ギャラガ』、『ディグダグ』、『ボスコニアン』になりました。

 当初『ギャラガ』と『ボスコニアン』を横山さんと私のふたりでやっていくことになりましたが、のちにひとつずつをメインでやるようになっていました。『ギャラガ』のトラクタービームを考えたのは私ですが、捕えられた自機を取り返してデュアルファイターにするというのは横山さんのアイデアで、びっくりした記憶があります。

黒須研修期間は、1ヵ月長野事務所、8ヵ月横浜サービスセンター。

 開発一課(ビデオゲームを作っている所)入社当時は、ハード・ソフトは別に分かれていなかったです。基本的に、ハードからソフトまで何でもするところでしたが、数年でソフト側でプログラムを書くことになりました。

Q3 『リブルラブル』を開発するにいたった経緯を教えてください。

岩谷1980年発売の『パックマン』の開発を終えた後は、業務用ゲーム機開発だけでは企業として将来的に成長性がないと思い、1980年後半から「未来商品開発プロジェクト」と称して、“遊び”という概念を中心にスポーツや教育やエンターテインメントなどさまざまな分野の要素を掛け合わせたビジネスモデルの構築を模索した。画面にタッチして絵を描くエレクトロ絵本の企画(タッチペイントの商標を取る)や、プレイヤーの技量に合わせてリアルタイムに難易度が自動的で調整されるセルフゲームコントロールシステム(オート難易度)などを提案した(『ゼビウス』に採用されています)。

 液晶画面を用いた『アニメクロック』の企画や、モノトーンの立体ブロックオブジェが自由に作れる『キューブロック』の試作品などで模索しているときに、未来商品は直ぐに実現しないようだし、開発企画課に戻ってゲーム開発のプロジェクトを見てくれないかということになり手土産として『ポテト』(のちの『リブルラブル』)の企画書を書きました。

 企画意図は、とにかく「いままでにまったく見たことがない新しい発想のゲーム」を基本開発思想(のちにコンセプトなどという)として考えていたときに、混み合ったディスコでその邪魔くさい人たちをロープで囲んでキュッと締めたらスペースができるなと思った瞬間に、“囲む”というゲームもおもしろそうだと閃き、子どものころに柔らかい土の地面に釘を投げつけて刺して、何本かの釘にタコ糸を絡めて陣地を作って遊んでいたのを思い出し、線で囲んで敵をやっつけるアイデアが生まれました。

 また、ゲームもひとつの媒体(メディア)として捉えれば、ゲームの中で広告ができるのではと考え、敵がポテトを運ぶゲームなのでお菓子メーカーと組んで市販のポテトチップスの袋が画面に大きく登場すれば話題作りにもなるのではと、ゲーム内広告の提案も企画書の中に書き込みました(実現はせず)。

 また、並行していくつかの開発プロジェクトが進行しており、それらのプロデュースする間係から、このあとの企画・ディレクションを思慮深く丁寧な仕事をされる佐藤誠市さんに託しました。

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『ポテト』の企画書から一部抜粋。ゲーム内広告の構想はこのころから存在した。

佐藤『ボスコニアン』の発売は1981年11月ごろですが、その前に開発作業は終わっていて次の企画を考えていました。そのころに岩谷さんの『ポテト』という企画書を見せられてやらないかと問われたわけです。

 『クレイジークライマー』という8方向レバー2本というゲームはありましたが、まったく違うゲーム内容なので操作に斬新性を感じましたし、囲むという動作もすばらしいアイデアだと思いました。最後のページにポテトチップスの宣伝を画面上で行い菓子メーカーとのコラボを行なおうとあり、企画書としても楽しめるものでした。

 即座に「やります」と返事をしました。

黒須“囲む”ってアイデアの企画があるけど、おもしろそうだから、ちょっと考えてみてみたいな感じで、平岡さんから言われて考え始めた感じです(『ポテト』の企画書が出てくる前に、企画から、平岡さんが軽く相談を受けたか、話を聞いたかだったんじゃないかと思います)。

Q4 『リブルラブル』は何人のチームで開発されたのですか?

  • 企画 岩谷 徹氏、佐藤誠市氏
  • プログラム 黒須一雄氏
  • ハード 小川 徹氏
  • サウンド 大野木宣幸氏
  • ビジュアル 佐藤誠市氏、小野 浩氏

岩谷あと、全体を統括する中村(石村)部長、筐体の機械設計、電気設計をするエンジニアの方々を含めて12~13名くらいかな。

佐藤企画には直接の上司である横山さんもいました。また小野さんにも加わっていてもらったと思います。

 小野さんは『ゼビウス』のときにも企画に加わってもらっていた気がします。デザイン課所属で出向していたのか本配属で来ていたのか記憶に定かではありません。池上君が会社を辞めたので私が主に地図データの作成を行い、岡本(進)さんがその他の仕様を決めるという作業をしていたのですが、ふたりとも他の仕事があるので専任できず初期からデザインで関わってきていた小野さんに白羽の矢が立ったものだと思います。

 けっきょくは難易度設定や敵の配置などは私と岡本さんで決め小野さんには企画は外れてもらったと思います。そのときの名残で『リブルラブル』の打ち合わせにも参加してもらってました。

 P1終了後のP2(※)に向けての打ち合わせを岩谷さん・横山さん・小野さんと私の4人で行い、P2仕様書を書いたあとは私がメインで仕様を決めていきました。

※第1試作開発のこと。この段階『ポテト』の企画をベースに開発された。P2はP1を受けて、改良された第2試作開発のこと。『リブルラブル』として大幅に仕様変更がなされている。

 そのほかゲーム内容に直接関わったわけではないのですが、POPやポスターなどのグラフィックデザインでクリエィティブ・センターの多賀さんという方がいました。豆本のリブルラブル・ストーリーなどで使用されている絵などが彼女の作品です。

 あと販促関連で古川・河合両氏の名前を挙げたいと思います。豆本とか“バシシマーカー”(宝箱の位置を忘れないため表示されたら画面上に置く牛乳瓶のふたみたいなもの)は、岩谷さんのアイデアをもとに両氏が実現されました。

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P2こと『リブルラブル』のゲーム仕様書。

Q5 『リブルラブル』の開発期間はどれぐらいでしたか?

岩谷企画書が1982年1月でプロモーション含めて1983年12月までの丸2年かな。

  1. 岩谷係長より1982年1月27日付の『ポテト』企画書が提出
  2. 2月1日から14日まで佐藤誠市がP1仕様書作成し提出
  3. 改訂版を作成後2月17日に岩谷係長・中村(石村)部長に承認され、平岡係長・黒須さん・小川さんに配布

ロケテスト

  • 1983年10月15日(土)9:30~20:00
  • 1983年10月16日(日)10:00~20:00
     千葉のショッピングセンターにあるナムコのロケで行う。
     その後、営業とかで独自にロケテをやっていた模様。
  • 発売:計画では1983年12月15日頭出し予定でした

佐藤以上のようなスケジュールで進行していたので開発期間は、ほぼ2年間。

  • しかし、P1基板の完成は当初82年5月末を予定していたが、7月中旬まで遅れる。そしてすぐにP1基板の再設計が始まり8月中旬まで延びる。この間プログラマーの黒須さんからV15関係は何もやっていないとの報告あり。ここまでプログラム的には何の進展もなかった。
  • 1983年5月24日:P1完成後P2に向けての打ち合わせを行う。メンバー:岩谷・横山・小野・佐藤誠市。この打ち合わせにおいてP1からの大幅な仕様変更が行われる。いわば『ポテト』から『リブルラブル』への大変貌である。
  • 1983年5月28日付でP2仕様に向けての変更箇所を提出。その後ずっと細かい変更を繰り返してロケテストまでいく。

佐藤ロケテスト後も変更をくり返していました。最後の変更は1983年11月29日くらいまでか? 『リブルラブル』の製作は佳境を迎えていたが、この頃黒須さんがセガの家庭用ゲーム機向けのギャラガを作っていて少しへこみました。

黒須2年くらいかかっていますが途中、ソード社のM5(※1)とかの仕事もしていた気がします。『セガ・ギャラガ』(※2)も作っていましたし、MSXの仕事もしていた気がします。

※1……1992年に発売されたPC。
※2……SG-1000に移植された『ギャラガ』。

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Q6 『リブルラブル』の開発中のエピソードがあれば教えてください。

岩谷ゲーム内容の囲んだ部分を塗る処理を行うため、グラフィック制御用としてMC68000を搭載した新たな基板の回路設計を『リブルラブル』のために行いました。

佐藤『リブルラブル』というネーミングが決まり心が楽になりました。ネーミングの募集を開発企画課の中で行い、その中で“Ribble-Rubble”という案が吉原さんから出てきました。英和の大辞典ぐらいにしか載っていない単語なのですが意味は“わけのわからない話”だとか。

 これがいろいろな要素がごちゃ混ぜに入っていたこのゲームにぴったりと決めてしまいました。右と左で操作するということにかけて『Libble-Rubble』とRをLに変えました。わけのわからないという言葉で開き直っていろんな不思議な仕様を付け加えることに抵抗がなくなったのです。

 “FLOWER”という文字をそろえると花のグラフィックが表示されるという仕様を考えたとき、急遽だったので開発企画部の田尻さんに頼んで花の絵を描いてもらいました。その後“FLOWER”以外のグラフィックを作成するとき小野さんに発注したのですが、“FLOWER”のグラフィックを作り直してもらうのは辞めました。

 『ボスコニアン』のときの苦い思い出がそうさせたのです。『ボスコニアン』で音声合成を行うと決めたとき、当時米国のSFドラマで女性のコンピュータボイスが流行っていました。同じように女性の声にしようと販売部の女性に何十テイクも声を吹き込んでもらったのです。しかしけっきょく彼女の声は使わず、後のナムコアメリカの社長になる中島さんの声を採用することになったのです。

 その女性に対してすごくすまない気持ちになったので今回はそのまま使おうとしたのです。 ちなみに花の絵を描いてくれた田尻さんは『ファミスタ』のキッシー(※)のお嫁さんになりました。

※岸本好弘氏。『パックランド』や『バラデューク』を手掛けたのち、ファミコンソフト『プロ野球 ファミリースタジアム』を開発した。

 アタリの『Quantum』(1982年12月発売)というゲーム機が『リブルラブル』の開発中に開発部にやってきました。ベクタースキャンのモニターにトラックボールを使ってくるっと円を描いて敵を囲むとやっつけることができるというゲーム内容でした。

 当初『リブルラブル』に似ているという話もありましたが、実際にやってみるとゲーム性が全く異なるので安心しました。でも囲んで敵を倒すというアイデアが同じで世界には同じことを考える人もいるのだと感動を覚えました。

 開発途中やはり両手の操作が難しいという話が出てきました。けっきょく試作もしなかったのですが片手操作も考えたこともあります。珍しいとはいえ8方向レバー2本の操作は『クレイジークライマー』であるしな、囲むということだけでなんとか新規性を出せないかと思ったわけです。

 岩谷さんの頭の中には子どものころ遊んだ釘刺しというゲームがあったそうです。私も同世代なので五寸釘を地面に刺しながら線を引いていくという遊びをやったことがあります。そこで8方向レバーの頭にスイッチを付けてスイッチを押すとその位置に釘が刺さり押したままレバーを動かすと線が引けるという仕様を考えてみました。いまでいうマウスの左クリックしたままのドローという感じです。でもやはり両手操作という魅力には抗しがたく採用しませんでした。

 ただ、いまでもやってみたらどうなっていたかを想像することはあります。

黒須試作段階では、田城幸一さんがCPUがZ8002x2(※1)の基板を用意していただいて、作っていましたが、Z8001(※2)ではなくZ8002だったうえ、メモリ空間が64Kしかないなど、いろいろと作りにくかったため、68000(※)にしてもらいました。

※1、※2……Z8000シリーズ。ザイログ社が1979年に発売した16ビットマイクロプロセッサ。
※3……MC68000。モトローラ社が開発したMPU。

 日立の方に用意してもらった68000は、まだES(エンジニアリングサンプル)品だったのですが試作中にCPUが壊れてしまいました。そのときにどうしようと思いながら日立の方に相談したら「新しいCPUを持っていきますので、壊れたCPUは捨てないでください。どういう風に壊れたか調べますので」と言われました。

 そのほかのエピソードでは、ある日、試作基板に一部が光っていて「あんなところにLEDついていたかな」と思ってたらタンタルコンデンサーが燃えていました(あれ、エピソードがハード関連ばっかりだ)。

Q7 『リブルラブル』開発チームやメンバーのこと、上司、部内発表、ロケテなどエピソードがあれば教えてください。

岩谷天才肌のプログラマーの黒須さんは昼間はプラプラとして仕事していないように見えるのに、翌日の朝には企画側が提示した仕様の先々を見越したプログラムを実装していました。「どうせ後々追加仕様で提示されるだろう」と先読みされていました。

佐藤やはり悪魔のプログラマーという異名を持っていた黒須さんのことから話さないといけないと思います。黒須さんとは私が初めて企画を受け持った『ボスコニアン』からの付き合いになります。かなり仕様的には無理を言っても快く引き受けてくれていました。

 『リブルラブル』の開発で黒須さんがプログラムを担当するということを聞いて安心感を持ちました。なかでもP1の部内発表で画面があまりにも寂しいので付焼刃的に画面の周りにネオン表示みたいな仕様を急遽作ってもらおうと頼みに行ったことがあります。

 そのときの黒須さんの態度はこちらの方を向かずコンピュータ画面に向かってキーボードを操作しているだけでした。やはりこんな付焼刃のにぎやかしだけの仕様なんて気に入らないのだなと思いながらしゃべっているときに一応それに使うためのキャラクターコードを持ってきたのですがそれを見せてくれと言われました。
 じつは私が仕様をしゃべっているうちにプログラムが完成していたのです。

 そんな温厚な黒須さんが激怒したことが一度だけあります。P1が完成した後P2仕様書を見せに行ったときでした。多摩川分室の4階中に響き渡るような声で「全然(P1と)違うじゃん」と言われたときです。そのときは本当にすまないけれどゲームをよくするためだと納得してもらいました。そのあとでもいろいろ仕様変更などを行うこともありましたが受け入れてもらえました。

 もうひとつ黒須さんが怒ったことがあるのですがそれは私に対してではなく、ハードの担当の小川さんとのことでした。突然何の関係もなく画面が塗りつぶされるという「塗りつぶしバグ」についての責任がどちらにあるのかという言い争いでした。ふたりとも私より2年先輩の同期でした。同期ということもありふたりとも譲らず、後輩の私も出て取りなすということもできませんでした。けっきょく原因不明のまま仕様ということで出荷してしまいました。ルールがわかりにくいゲームでさらにわかりにくくしてしまったことは、いまも申し訳ないと思っています。

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P2の仕様書にさらに追加修正がかかったもの。練習ステージの仕様も書かれている。

佐藤グラフィックの小野さんも『ボスコニアン』のころからの付き合いになります。自機の作成とかでもめたりもしましたし、敵基地のグラフィックも何度もダメ出しをしていました。ただ本当のダメ出しは私より1年先輩の岡本(進)さんのほうが行っていました。入社1年目の人間が自分より年下とは言え先輩にダメ出しをするのはやはりためらいました。

 でもけっきょく、すばらしい敵基地のグラフィックを作っていただいたので感謝をしています。そのときと違い『リブルラブル』のときは、小野さんも開発企画部に所属していたのでいろいろと気軽に注文できました。ホブリンがくるりと回転する絵などはあの少ない枚数でよくも表現できるものだと感心しました。

 また“FLOWER”以外の絵も小野さんにやってもらったのですが、“HI-SCORE”や“BRAIDAL”の絵も小野さんのアイデアで自由に描いてもらいました。なかでも“FANTASY”の絵にはびっくりしました。これがファンタジーのイメージ? と疑問の声もありましたがRIBBLE-RUBBLEの心でオーケーを出しました。亡くなられたことに対しお悔やみ申し上げます。

 BGMや効果音の作成をしてもらった私の同期の大野木君も亡くなられています。同期の気安さでいろいろな注文を行い、彼はそれによく応えてくれました。

 BGMとして、そのころ私が好きだったアンデス地方の民族音楽の“花祭り”みたいなのがよいと大野木君に頼みましたが、彼はその曲を知らなかったようです。彼の守備範囲の音楽ではなかったですが、いざ完成すると私のイメージぴったりの曲を作ってくれました。感謝をしています。

 またプログラマーの弓達君の尽力で日吉ミミさんが歌う『目蒲線の女ーリブルとラブルのお話ー』という演歌として生まれ変わりました(※)。大野木さんはどう思ってくれたのでしょうか。

※サウンドトラックの『ビデオ ゲーム グラフィティ』に収録されている。

 ラインで囲んだときのバシシという効果音を作ってくれたのも大野木君で最初は「バシシというよりもオヨヨに聞こえるよね」とか軽口をたたいたりしていました。本当は囲んだ部分の塗りつぶしがもっと早くできるものと思っていたので企画書にあったバシシでぴったりかと思っていたのですが、じわじわと塗りつぶされていきました。

 そこでコップに水を灌ぐときのようにだんだんと音程が高くなるのはどうかなどと提案したりしました。彼もわりと乗り気だったのですが、プログラムの方から残りのピクセル数とかのデータとかをもらわないといけないということでそこまでやる必要はないかとやめました。

 同じようなことは『ゼビウス』のバキュラに弾を当てたときに金属音がするので、バキュラの画面上の位置によりその音程が違うとおもしろいのではと遠藤君に提案したことがあります。そのときはそれほどおもしろい仕様ではないとすぐに提案を取り下げたのですが。家庭用とかで遊びでやってもおもしろかったのかなと思います。画面の端から端まで横一列に並んでやってくるバキュラで絶望したときに。あるメロディを奏でると全消しできるとか。

黒須ナムコのゲームでは、2面くらいクリアしたりするとチャレンジングステージやボーナスステージなどがあったのですが、この『ポテト』の段階では、「ポテトチップのCMを入れよう! そのために芋を題材にしよう」みたいな話があったと思います(岩谷さんが藤谷美和子さんのCMを気に入っていたんですかね?)。

 囲んで収穫みたいな事をいっていたので、じゃあ、成長とかするの? って言ったら、そのまま仕様になってしまっていたりするし、フラッシュアイデアがバンバン入ってくるし、仕様が迷走していた時があり、その間には他の仕事を入れられていたりしました。

 ほかには、『ラジオはアメリカン』(※)での『リブルラブルの歌』とか日吉ミミさんの『目蒲線の女―リブルとラブルのお話―』とか、いろいろとプロモーションしていただきました。

※1981年4月12日から1996年6月30日の期間に放送されていたラジオ番組。

佐藤千葉のショッピングセンター内のナムコロケにてロケテをやったときの思い出。ひとりの青年が『リブルラブル』をやっていまして私が彼の後方でメモを取りながら調査をしていました。バシシしたときに画面がブリンクしたりなぜか宝箱が出たりするのを不思議がって首を傾げたりしていました。

 最終的には原理を理解できたようでこちらを見てニコッと笑いかけられたときは心と心が通じ合えた気がしてうれしく思えました。

金沢のファンからのメール

佐藤富山県の高岡アミューズメントマシン同好会の橋本君(当時16歳)という方から金沢事務所経由で手紙が届きました。開発ではかかわっていないロケテストで営業部でのロケテストです。1983年11月3日(木)より11月6日(日)までずっとビッグキャロット金沢店でロケテスト中の『リブルラブル』をやったときの感想を事細かに書いていました。

 かなりこのゲームを気に入ってもらえたそうで大好評のようでしたが、操作するもののキャラクター(リブルとラブル)がかわいくないとか、“RAINBOW”をそろえるも花のグラフィックしか出てこなかった。全画面塗りつぶしバグが出たとかきびしい内容も書いてありました。もらったときはまだ開発の追い込み中で返事ができなかったのは申し訳ないと思っています。

 また製品出荷後に神奈川の牛島さんという方からもファンレターをいただきしばらく文通をしたりしていました。その他『リブルラブル』を愛していただいた方々には感謝しかありません。

Q8 リブルラブルで工夫したポイント、苦労したポイントなど教えてください。

岩谷プロモーションとしての販促ツールを考える際、ゲームのストーリーや攻略法が書かれた豆本のほかに、厚紙でできた丸い“バシシマーカー”を作成しました。これはゲームのボーナスステージ開始時に瞬間的に表示される宝箱の位置を忘れられないように、プレイヤーはテーブル筐体のガラス板面の上にバシシマーカーを置けるようにしたのです。

 このガラス板面にマーカーを置くという方法は、入社時に同期の皆と新宿で徹夜して遊んだメダルゲーム(日本でのメダルシステム)の『ビンゴピンボール』をプレイする際、25個の穴が開いているプレイフィールド上の数個の狙った穴を忘れないように上のガラス板面にチップやメダルを置いてプレイしていたのがアイデアのもとです。

佐藤企画書『ポテト』の延長上にP1を製作したのだが、実際に遊んでみてこのままではゲームにならないことに気が付いたこと。
 何故ゲームにならないかは以下の通りです。

  1. ゲームスタートとともにリブルラブルをくっつけたまま、最上部へ移動させます。
  2. その後左右に広げ右端・左端の杭に引っ掛けながら下まで一気におろします。
  3. いちばん下まで下ろし切り、下の枠にリブルラブルをくっつけると画面一面のバシシができてしまう。

佐藤ほとんど苦労せずに1面クリアとなってしまうからです。ゲームとしてはまったくおもしろくないというわけです。

 そこでP2に向けての仕様はこれをどう防ぐかになりました。大きくバシシせずに小さくさせるための工夫がサーチバシシだったりとかです。また“シェアー”というハサミみたいなもので大きく囲もうとしていたらプツンと切ってしまうとかです。バシシした土地の土壌が荒れて植物が育ちにくくするといったペナルティーとかも入れました。

 最初のほうの面はまだこの一発バシシクリアができるようにしてあったと思います。小学生の子どもでもクリアできるようにした方がいいと考えたからです。

 でもなるべくなら小さくバシシしながら宝探しをしたり植物を育ててもらいたいという遊びかたをしてもらいたかったです。豆本とかにそこら辺のことは書いてあったと思うのですが。そこまでして遊んでくれる一般の人は当時少なかったのだと思います。

 『ポテト』では画面クリアを目指し、『リブルラブル』ではクリアしてしまわないように気を付けながら宝探しをしたり、植物を育てたりするという矛盾したふたつの目的ができてしまったのがゲームをわかりにくくしてしまったようです。

黒須とりあえず、杭に紐を巻き付けた後に綺麗にはがれる感じにする部分は何度も試行錯誤しながら(プログラムを)書いた記憶があります。杭からなかなか離れなかったりして、この杭は何故か粘着力があるみたいな感じになってしまったこともありました。

 塗りつぶしも、当時のCPUはそれ程速くないので、けっこう時間がかかるのですが、時間がかかって、当時よくあるペイント方法だとなんか恰好悪いよねと思って、くるくると塗りつぶす感じになりました。内側ってどうやって判断するんだろうとかも、わりと苦労した気がします。

佐藤1983年5月24日の打ち合わせの後、6月6日P2仕様書提出、9月1日P2発表、10月15日プログラム完成ということが決定しました。

 1983年5月28日付の“V-15P2仕様にあたっての変更箇所”という文書で

基本方針

 基板そのもののコストが高くなることが予想されるので、

  • 販売上は初期売り上げが高く
  • 営業的には長期にわたって収益が得られることが必要
     そのためには、
  • 8方向レバー2本という目新しさでマニア層に強烈にアピール
  • その後に一般のプレイヤー層に入ってきてもらえるようにする
     そこで
  • 作戦主体のゲームにする
     という方針でゲーム内容を検討するとあります。

 そこで、

  • 動くターゲット(最初はフィールド内に落ちているポテトだったが、移動するマシュリンへ)
  • サーチバシシ(単に敵やポテトを囲んで消すだけではなくする)
  • エネルギータイマー(時間制+エネルギー補給にする、P1発表時に作った外周のネオン表示を活用)
  • 見えないターゲット最強の敵が埋まっている(サーチバシシの活用、ガーゴイル)
  • 小区画バシシでないと効果は出ない
  • 左右ライナーの形状をわかりやすく(矢印にする)
     などなど、P1から大幅な手直しをすることになり、黒須さんの激怒につながるのである。これからもかなりの仕様変更・仕様追加があり自分でも把握しきれなくなっています。

 ただ問題はマシュリンをクリアするという単純なゲーム性と宝探しの複雑なゲーム性のふたつが組み込まれたため、プレイヤーにとってわかりにくいゲームとなってしまいました。言わば、岩谷さんと私のふたつの魂が込められたゲームになり複雑すぎて一般のお客さんには受け入れられにくくなりました。

企画時のタイトルは『ポテト』!? 『リブルラブル』当時の開発陣へ一問一答11連発&秘蔵の企画書を大公開!
企画時のタイトルは『ポテト』!? 『リブルラブル』当時の開発陣へ一問一答11連発&秘蔵の企画書を大公開!

Q9 『リブルラブル』は多くの人に愛され大ヒットしました。開発当時は売れ行きなどはどのような予想をされていましたか?

岩谷ゲームの新規性や戦略的な奥深いゲーム性はゲームマニアには高い評価を得ましたが、左右が入れ替わったりする両手操作の難しさから一般プレイヤーには難度が高過ぎ売れ行き的にはきびしかったと記憶しています。マニアの方々の心に残っているのは確かで、5年前にスペインのゲームショーに行った際にはスーパーファミコンの『リブルラブル』のソフトパッケージを差し出す現地のマニアの方が居ましたのでサインをしてきました。

佐藤大ヒットと言ってくれましたが、会社的にはそうではないように思います。

 マニア層にはアピールできたのですが、その後の一般層の取り込みができなかったと反省しています。ただその後、開発技術部(基板などのハードを設計する部署)というところに所属していたときにスーパーファミコン用の『リブルラブル』が社内販売されました。そのときに部員の購入数がかなり多くて事務の女性に「そんなにおもしろいゲームなの?」とびっくりされたことがありました。『リブルラブル』好きでナムコを選んでくれた人がこんなにも多くいてくれたのかと喜んだ記憶があります。

 売れ行きということでは米国への販売ができなかったのが残念です。米国の販売会社の社長が日本に来られたとき、30分ほど遊び込んでくれたようです。その後の話を人づてに聞いたのですが、「いい製品ではあるがいい商品ではない」とおっしゃっていたそうです。

 それを私は“ゲーム自体はおもしろいが商品として売るには難しい”と捉えていました。いま考えると単に断るためのよくあるフレーズだったのかもしれませんが。アメリカにそんな風習があるのかは知らないので断るのならもっとずばり言うだろうとその当時は思っていたので。

黒須人気はけっこうあったとは思いますが、売り上げは微妙というゲームだったと記憶しています。研修時代にサービスセンターにいたので、営業部の方に知り合いが何人かいたのですが、「黒須君の作るゲームは判断が難しいんだよね、売り上げが悪ければ、ほかのゲームと変えるけど、変える判断よりかはインカムあるんだよね」と言われたことがありました(『ボスコニアン』とかも含めてです)。

 好きな方は、すぐに上達して長時間プレイしてしまうため、人はついてるけど、収入が少なかったようです。

Q10 ナムコの『アケアカ』参入について思うことがあれば聞かせてください。

岩谷オリジナルのアーケードゲーム機の難易度は、業務用としてロケーションでのお客さんの回転率を考慮したものとなっていますのでやや難し目に設定されています。そのため対価を払って家でまったりと安心してプレイしたい家庭用のゲームでは初級者向けに易しい設定のバージョンも併せて提供いただけましたら幸いです。

佐藤最近はゲームもあまりやれていませんし、情報も入れていないのでとくに言葉を持たないのですが、YouTuberやVtuberに(自分の手掛けたタイトルが)ゲーム実況されるとうれしいとは思います。これは私以外のすべての開発者の気持ちだと思います。とくに40年近く前のゲームをやってもらえるのは喜びもひとしおです。

 現在の開発者にとっても温故知新でゲーム制作で何らかのヒントになれればと思っています。『リブルラブル』のような新規なゲームは開発中全然先が見通せないのです。試作してみてこそ問題点とかがはっきりとわかります。
 P1(ポテト)があってこそのP2(リブルラブル)がありました。

 今度は『リブルラブル』がP1となって、不満点(操作方法など)を解消したり別のゲーム性に変えたりしてもらえると開発者冥利につきます。

黒須昔作ったゲームが、また遊べるし、遊んでもらえるのはとてもうれしいです。

Q11 ナムコ、好きですか?

岩谷締め切りもなく自由に創作活動ができる開発環境でしたので、嫌いと言ったら罰が当たりそうです。プレイヤーに寄り添いながら“遊び心”を忘れず、つねに新しいゲームを世に送り出してきたナムコに在籍していたことを誇りに思っております。

佐藤今回『リブルラブル』について過去の資料とか見たり思い出を巡らせてみて気付いたことがあります。『リブルラブル』開発に関わってくれたQ4で上げた人々のほかに、店舗用の『リブルラブル』ゲーム紹介ビデオの作成を行った柘植君・北原君・岡本(進)さん、そしてナレーションを入れてくれた清水さんなど、多くの人の力を借りています。また社内モニター調査を行ってくれたマーケティングの吉原さんや渡部俊樹君など。とくに渡部君の報告書には問題点などが記載されて仕様を決めるのに参考になりました。

 けっきょく多くの人の支えがあって『リブルラブル』ができていたことに気がつかされました。当時はひとりで全部やっていたような感じで傲慢になっていた気がします。そのせいかなかなかおもしろくできないことに対してノイローゼみたいになり暗いところでひとりで深刻な顔をして仕様を考えていこともあります。そのとき上司の横山さんに「大丈夫かい」と声をかけられたこともありました。

 こんなに多くの人に助けられていたことを思い出して、やっぱりナムコが好きなんだなと思い知らされました。

黒須はい、いまの私がいるのは「ナムコに育ててもらった」おかげですので。

最後に……

佐藤質問にはありませんでしたが『リブルラブル』で悔やまれることがあります。昔を振り返るときに必要だと思う最終仕様書を書いていなかったことです。それも『ゼビウス』と『リブルラブル』の2作品も。

 『ゼビウス』は82年12月発売で、完全に『リブルラブル』の開発期間と被っています。『ゼビウス』終了時はリフレッシュ休暇などというものもないぐらいで絶対的な時間もなく書けませんでした。『リブルラブル』のときもきっと他の仕事が入ってきていたのだと思います。単なるさぼりかもしれませんが。

 なおゼビウスの最終仕様書は、私が書くのか岡本(進)さんが書くのか遠藤君が書くのか責任の所在がはっきりとしないという理由もありました。それぞれに次の仕事に追われていて3人のスケジュールや書く内容の分担も決められなかったということもあります。

 岩谷さんの書いた『パックマン』の最終仕様書はリブルラブルの仕様を決めるときにすごく参考にさせてもらって有意義だったので後輩のためにも書いておきたかったと反省しております。

企画時のタイトルは『ポテト』!? 『リブルラブル』当時の開発陣へ一問一答11連発&秘蔵の企画書を大公開!