転職、会社設立、そして離散。ゲーム開発への遠い道のり
世界中のゲーム開発者が集い、最新技術やゲーム制作の過程などを解説、紹介する国際会議“GDC(ゲーム・デベロッパーズ・カンファレンス) 2013”が、現地時間の3月25日~3月29日の期間、アメリカ・サンフランシスコのモスコーニセンターで開催された。この記事では、『TOKYO JUNGLE(トーキョー ジャングル)』を手掛けたクリスピーズの片岡陽平氏による講演をリポートする。
『TOKYO JUNGLE(トーキョー ジャングル)』は、2012年6月7日にソニー・コンピュータエンタテインメントジャパンより発売された、プレイステーション3用タイトル。人類が消えた東京を舞台に、50種類以上の動物から好きなものを選び、弱肉強食の世界でどれだけ生き延びられるかを競うサバイバルアクションだ。いちメディアとして、かねてよりこの作品に注目してきたが、2010年の東京ゲームショウでは2Dのアクションゲームとして出展されていたのに、気がつくと3Dアクションになっていた(横スクロールは変わらないが、奥行きの概念が追加された)という、何とも不思議なゲームである。
本作を手掛けたのは、ゲーム開発経験のなかった片岡氏が立ち上げたクリスピーズ。この講演では、『TOKYO JUNGLE(トーキョー ジャングル)』が生まれるまでの経緯や、なぜクリスピーズがファーストパーティー(ハードメーカー)から支援を受け、プレイステーション3用のタイトルを発売できたのかが語られた。
片岡氏がクリスピーズを設立したのは2007年。21歳のときのことだ。しかし、ここに至るまでには、もう少し前から説明する必要がある。そこからさらに2年前の2005年。美術学校の学生だった片岡氏は、学業の傍ら、フリーのデザイナーとしてWebデザインなどで収入を得ていた。しかし、広告代理店や企業の要望を汲み取って、言われた通りのデザインを日々こなしていく仕事にだんだん魅力を感じなくなっていき、子どものころから憧れていたというゲーム作りの道に方向転換することを決める。
学校などを通じて仲間を集め、ゲームを作り始めた片岡氏。始めに考えていたのは、“メテオ”というRPGだ。主人公の住む星には巨大な隕石が迫っており、10日後には衝突してしまう。隕石が衝突すると惑星は崩壊し、人類の滅亡は避けられない。そんな惑星に住まう人々の、最期の日常を追っていくというコンセプトのゲームだった。2005年の当時はスマートフォンもなく、PCゲームをネット上で公開したり販売するプラットフォームもない時代。ゲームを作っても披露する場がないどころか、遊んでくれる人も、開発のためにお金を出してくれる人もなかなかいない状況だった。片岡氏は、会社勤めは自分には合わないと思っていたので、自身で会社を設立することを決意するが、資金があったわけでもないし、予算を出してくれるクライアントにあてがあるわけでもなかった。そんなときに目に入ったのが、PlayStation C.A.M.P!の貼り紙だったのだ。
家賃38000円。六畳一間のマンションを借り、そこをスタジオにして片岡氏は応募作品を作ることにした。毎日ここに5人、すし詰め状態になりながら、3つのゲームのアイデアを考えたという。なぜ3つだったかというと、当時はプレイステーション2とプレイステーション・ポータブルが現行機で、発売を控えていたプレイステーション3も含めて、ソニー・コンピュータエンタテインメント(以下、SCE)のすべてのハードに適したソフトを提案しようと思ったからだ。その3つのゲームは、以下のようなものだった。
このように、ソーシャル、アクション、RPGという各プラットフォームに適したタイトルを、異なるアートワークやゲームシステムとともに提案した。これの狙いは、ひとつのスタイルにとらわれず、さまざまな世界観を構築できるチームということを印象づけたかったからだそうだ。さらに、その仕上げとして、自分たちのふざけた集合写真を撮って、SCEに送りつけた。
この作品群と写真(?)が認められ、クリスピーズが立ち上がることになる。これが、2007年のことだ。クリスピーズ設立後、1作品を手掛けるが、その後に内輪もめをして、7人いた社員はふたりにまで減ってしまう。このとき、いちばん問題だったのは、ふたりでもゲームが作れるということをSCEに認めてもらう必要があったことだ。そこで、残ったふたりはひたすら企画を出すことになった。その内容を見ていこう。
じつは、このときのプラン3こそが、『TOKYO JUNGLE(トーキョー ジャングル)』の原型、始まりということになる。しかし、それはすんなり決まったわけではなかった。当初片岡氏が考えていた、空を探索したり、地中に穴を掘って潜ったりしながら世界の全容を解明し、地図を作っていくというアイデアは、「ゲームとしての遊びのロジックやシステムが足りない」と言われ、SCEには認めてもらえなかった。そこで、ゴール地点は設けず、その世界を冒険するというコンセプトを引き継いだ新しいゲームを考えることにした。そのためには、新たな設定が必要になる。その際、もっとも意識したのは、普遍性と斬新さを共存させるということだったという。普遍的なものと普遍的なものを掛け合わせて、普遍的だけどユニークなものを作る、というわけだ。そこで片岡氏が導き出した答えは、誰でも知ってる“動物”というキャラクターと、SFなどの定番である“人類が消えた都市”という要素の掛け合わせ。これによって、この企画は、普遍性を持った斬新な作品という骨子を手に入れることができたと片岡氏は語る。そして、動物を主人公としたことで、「足りない」と言われていたゲームのロジックも固まっていった。動物は弱肉強食の世界で生きていく。そこで能動的に捕食をしなければ、空腹になって死んでしまう。死なないためには、獲物や食物を探し回り、捕食しなければならない。シンプルだが、この要素だけで、ゴール地点を排除し、その世界で冒険し続けるためのゲームシステムが生まれたのだ。この世界観とゲームシステムが頭の中で結びついたとき、片岡氏は自然とタイトル名が浮かんできたという。それが『TOKYO JUNGLE(トーキョー ジャングル)』だったのだ。
タイトルとゲームのコンセプトが固まったところで、片岡氏は“資料”を作ることにした。それは、仕様をまとめたものではなく、自分たちの気分を盛り上げるための模擬広告やアートワークだ。作品はまだ完成していないというのに、ダミーの広告やアートワークを作るということは、一見ムダな工程にも思えるが、振り返ってみると、最初の段階から発売までのイメージを固めて作業をしていたことは、開発チームにとってもモチベーションを保つためにいいことだったと片岡氏は語っている。
こうしてもろもろの要素が集まり、緊張の面持ちでプロデューサーに見せると、タイトル名を見た瞬間に採用が決まったという。不思議なことに、おもしろいアイデアというものは、企画書の内容以上に、コンセプトを体現しているタイトルやキャッチコピーで伝わるのだそうだ。これを察知する能力は、別にプロデューサーの特殊能力ではなく、お客さんも同じような感覚でいろいろなものを選別しているはずだと片岡氏は語った。
ついに『TOKYO JUNGLE(トーキョー ジャングル)』が始動!
いよいよ『TOKYO JUNGLE(トーキョー ジャングル)』の開発が始まる。開発現場は以前よりは広くなったものの、民家なのは相変わらずだった。別に片岡氏が民家にこだわっていたわけではなく、ビルやスタジオを借りるお金がなかったというのが実状だ。95平米ほどの民家に最初はふたり、開発終盤までは10人ほど、最後の4ヵ月は26人のスタッフが集まり、ゲームを作っていた。文字通り、足の踏み場もなかったらしい。とても狭い開発現場だったが、そのぶん濃密な時間を過ごすことができたのだそうだ。
ゲーム開発の経験がほとんどなかった『TOKYO JUNGLE(トーキョー ジャングル)』の開発チームだが、ゲームの常識がなかったからこそ得られたメリットと、経験がなかったことによるデメリットがあったという。それは、どんなことだったのだろうか?
紆余曲折ありながらも、ついに『TOKYO JUNGLE(トーキョー ジャングル)』は完成。デバッグをしながら、広告物のデザインもすることになった。言うまでもなく、新規タイトルはいかに目立つかが勝負だ。そのために、PVから販促物のポスター、雑誌の広告やメディアの素材、パッケージにいたるまで、すべて自作することに決めたという。本来は、それぞれの分野のプロにお願いすることが通例だろうが、販促物は言わば自分たちの商品とお客さんを最初につなぐもの。ゲームを作っている人が作ったほうが、きっとお客さんの心をつかめるはず、という信念からの選択だったそうだ。
講演の最後に、日本のゲームのこれからについての展望が片岡氏より述べられた。過去を振り返れば、日本の文化や技術は海外でとても評価されていた。その歴史は、日本のマンガやアニメ、ゲームなどに受け継がれ、脈々と流れていると片岡氏は語る。自分たちがおもしろいものを突き詰めていくことが日本のゲームの独自性にもつながり、それが海外にも新しい価値観を持つものとして認められる。それが、古来からの日本の強みであるとまとめ、講演を締めくくった。
けっして恵まれた開発環境でもなく、潤沢な資金があったわけでもない『TOKYO JUNGLE(トーキョー ジャングル)』。しかし、そのゲームに懸ける情熱や、おもしろいものを作ろうとする野心のようなものはファーストパーティーにしっかりと伝わり、世界中のユーザーへと広がっていった。クリスピーズのような小規模開発の現場から意欲的な作品を今後も送り出していくためには、大手パブリッシャーやファーストパーティーの支援など、インディーゲームを支える施策が必要になるだろう。日本のインディーゲームは、これからが本番なのだ。