武宗しんきろう
プレ・ファミコン時代のビデオゲームにまみれて育ったWebデザイナー。退屈な日常を夢の世界へ変えてくれるビデオゲームの魅力にとりつかれ、おもわずブログを始めてしまいました。合言葉は不思議!? すげえ! カッコいい!!



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食べるの大好き食欲旺盛なインコ好きイラストレーターです! ツキイチの友人との寿司会が楽しみな日々です! よろしくお願いします!(´ω`)
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第4回:ODYSSEY(その1)「家庭用テレビゲームの誕生」

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 こんにちは。窓辺のマーガレット・武宗しんきろうです。
 本日も一席おつきあいよろしくお願いいたします。

 ゲーム売り場に足をはこぶ理由のひとつに、パンフレットをもらう楽しみってのがありますよね?。とくに新ハードのパンフレットには、定期刊では味わえない、さあ、凄いことが起こるぞ! 見たこともないゲーム体験がやって来るぞ! といったドキドキ感がぎゅうぎゅうにつまっていて、思わず記念品として保存しておきたくなります。
 このようなパンフレットやチラシの歴史は古く、重要な販促アイテムとして、ゲームのセールスを伸ばす手助けを担い続けてきました。

 へ?まさか、レゲ娘にもある?

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※本連載では、TVゲーム=家庭用据え置き型ビデオゲーム機と定義します。
※価格は新発売時のものです。
※メーカー名は当時のものです。
※文中のデータなどは当時の資料をもとに武宗しんきろうがまとめたものです。


世界初のテレビゲーム機・ODYSSEY(オデッセイ)

 あらためまして、みなさんは、世界で初めて商品化されたTVゲーム機(本ブログでは据え置き型家庭用ビデオゲーム機をさす)が何かご存じでしょうか?
 インベーダー? ブロック崩し? え? 表題を見ればわかるって? こりゃ野暮な質問でした。はい、世界初のTVゲーム機は、1972年下半期に、米国の家電メーカー・MAGNAVOX(マグナボックス)が開発/発売したODYSSEY(オデッセイ)というマシンです。
   
 まずはイメージ的な画像をいくつかごらんいただきましょう。


 写真1:ODYSSEY(1972年/MAGNAVOX) 

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▲セパレート式コントローラー2組、ソフト交換方式によるマルチゲームシステム、拡張端子によるシステムアップなど、現在のTVゲーム機と変わらない志向を持つ。

 

 写真2:標準セットで遊べる12種類のゲーム 

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▲スポーツから思考系、教育系からカジノまでと実に幅広いラインアップ。ベースの遊び自体は極めてシンプルで、オーバーレイスクリーンを重ねることで画面をはでにしたり、キャラクターを表現したりしている。

 

 

 写真3:ゲームプレイのイメージ(パンフレットより) 

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▲広い洋間に大型テレビ、ほがらかに笑う妻とふたりの子ども。ターゲットユーザーが父親であることがわかるショット。さりげなく机の上に置かれているルールブックの存在にも注目しよう。

 

 写真4:標準セットに入っているアクセサリー 

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▲ルールカードやゲームボード、コインやサイコロなどを、多数のアクセサリーを併用しながら進めていく。これでも標準セットに入っているほんの一部にすぎない。

 

 

テレビゲーム事始め


 ODYSSEYを設計したのは、MAGNAVOX社のテレビ部門の技師ですが、これは1969年に開発されたBROWNBOX(ブラウンボックス)という試作ゲーム機がベースになっています。生産ラインや製造コストといった面において、BROWNBOXを量産化に適するよう再設計したものがODYSSEYというわけです。

 BROWONBOXの開発責任者であり、俗にビデオゲームの基本特許と言われる「テレビジョン・ゲームおよび訓練装置」などを取得した人物が、TVゲームの父と呼ばれるRalp.H.Baer(ラルフ・ベア)氏です。



 写真5:「ビデオゲームの父」と呼ばれるRalph.H.Baer氏と彼の手がけた製品 

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▲1922年南西ドイツ生まれ。2004年度アメリカ国立技術者賞受賞。2010年には米国発明殿堂へ殿堂入りを果たす。現在でも世界的な人気を誇る電子ゲーム「SIMON(サイモン)」(写真手前)もベア氏の手によるもの。http://www.ralphbaer.com

 BROWNBOXとODYSSEYの誕生の経緯は、Baer氏の自伝である「VIDEO GAMES:In The Beginning」(ROLENTA PRESS/2005年刊)に詳しく紹介されています。それはまた、TVゲーム機(据え置き型家庭用ビデオゲーム機)というものが、この世に産声をあげるまでの貴重な証言集とも言えるでしょう。

 

 

 前回ふれましたが、TVゲーム機以前にも、ブラウン管に映像を映す装置というものは存在していました。たとえば、スイープジェネレータやパターンジェネレーターと呼ばれる、テレビ受像器を調整するための高周波発振器がそれです。

 1951年、Loral(ローラル)というメーカーでテレビ機器の設計と構築を行っていたBaer氏は、これらテスト機器で画面に線やチェッカーボードの模様が描けることから、「他社製品とちがいを出すために、なにかゲームのようなものを、我が社のテレビに組み込んでみてはどうか?」と上司に提案します。しかし「そんなことはとっとと忘れて、キミはテレビだけつくっていればいいんだ」、とそっけなかったとか。

 ちなみに、NHKや日本の民放がテレビ本放送を開始したのは、このエピソードの2年も後(1953年)だったりするんですけど......。

 

 Baer氏の著書や関連図書において、さかんに出てくるキーワードに「テレビに通常放送以外の何かをさせたかった」というものがあります。それだけならば、たとえば(VJがクラブで使うような)音声信号単を視覚化するビジュアライザーのような発想だって生まれていたかもしれません。ところが、Baer氏が行き着いたのは、そのような一方向性のものではなく、双方向性を持つ遊具=TVゲーム機というアイデアだったのです。なぜ、ここで突然、遊びの概念が降りてきたのでしょう?その理由がつきとめたくて、筆者はBaer氏にせまったことがあります。

 

 ——それはテレビ技術者としての興味からだったのでしょうか? もしくは当時のテレビ番組がつまらなかったから? 

 

Baer:

 「両方です。私はテレビ技術者でしたから、テクニカルな知識から見てテレビに何ができるか何ができないか判断できたということは、ひとつの事実です。もう一方のブレイクスルーが、当時約4000万台あった米国のテレビで何かインタラクティブなことをさせるという展望でしたね。」(メール質問に対するbaer氏からの回答/2008年4月)

 ——TVゲームが生まれた60年代といえば、ベトナム戦争などネガティブな放送がテレビから一方的にうんざりするほど流れてきた時代だったと思うのですが、それが発明につながった部分はあるのでしょうか?

Baer:

 「答えはシンプルです。私は技術者だったし、技術者だし、これからも技術者であるということです。私にはつねに新しいアイデアを思いつく才能があります。テレビでゲームを遊ぶというアイデア。まずケーブルシステムを利用してケーブルテレビを魅力的にする、後に新しい道具としてどんな古いテレビにもセットできる……、それらすべてはベトナムや政治類に関係はありませんでした。」(同)

 

 あえて回答をぼかされているような気もするのですが(笑)、TVゲーム機という発想の誕生には、文化的な背景は基本的にからんでいなかったようなのです。また、氏はODYSSEY以前にビデオゲームを一切見たことは無い、と語っておられます。

 

 

 

軍需企業ゆえに開発が可能だった

 

 1955年、Baer氏はSanders Associates(サンダースアソシエイツ)社に入社。同社はエレクトロニクスを使った国防兵器を開発する軍需企業であり、やがて氏は双方向映像部門における開発部長に任命されることになります(1960年)。部長職についたことで、個人的なプロジェクトを自由に研究開発すること、またディスプレイを使った最先端の映像技術を研究することが可能になり、奥底に沈んでいた”あの装置”のことがふつふつとよみがえるようになったそうです。

 

 そしてこれが重要なポイントだと思うのですが、銃を構えて敵を撃つターゲットシューティングなど、軍事トレーニングとして応用できるこの分野には確実な顧客がいたそうです。彼の部署の研究はビジネスとしてもある程度目処が立つものであり、またその技術は、TVゲーム機を構成する装置の発明にも応用できたというわけです。

 テレビ画面を銃で狙い撃つなどという画期的すぎる遊びは、どう考えても、先の測定装置の文脈から出てきそうにありません。Baer氏の技術とTVゲームという娯楽を結びつけたミッシングリンクは、あんがい、兵器シミュレーターや軍事トレーニング機器がはらむ、ある種の遊戯的な要素にもあったのでは?と筆者はこっそり思っているのですが。



  写真6:Sanders Associates(サンダースアソシエイツ)社 

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▲New Hampshire(ニューハンプシャー州)の国防系企業。現在はBAE SYSTEMS社に吸収合併されている。

チェイスゲーム、ガンシューティング、そしてボールゲームの誕生


 1966年の夏、ニューハンプシャーの日当たりのよいバス停にて仲間を待っている時、Baer氏は、TVゲームのおおまかな仕様や構想をメモ帳に書き留めています。Sanders社に提出するために清書されたメモ("Eureka"Documentと名付けられている)の日付は9月1日。この日はTVゲーム記念日と認定されてもよいかもしれませんね。

 「That was the genesis of the industry.(それは産業の起源でした)」(著書:VIDEOGAMES:In The Beginingより)

 

 彼は研究室に戻ると、さっそく回路のブロック図を書きあげ、ふたりのプレイヤーが自分用の光点をそれぞれ自由に操作できる試作機第一号の製作にとりくみました。この装置はわずか5日で完成したそうですが、そこから初めて勝敗のつく「pomping game(ポンプゲーム)」が完成するまでに、じつに9ヵ月を要したそうです。

 TVゲーム機の開発は想像以上に困難だったようです。役員を前にしたプレゼンテーションの成功で、Baer氏のTVゲームプロジェクトは予算のついた正式なプロジェクトへと昇格したのですが、当時はベトナム戦争の泥沼状況から軍需産業全体が斜陽にあり、時間と金のむだ使いはやめさせよと社内の反対意見も根強く、神経をすり減らす状況が続きました。

 さらに根源的な問題として、Baer氏ら開発チームはエレクトロニクス開発の専門家ゆえ、回路設計やコスト削減策には手慣れていたものの、およそエンターテインメントというものからかけ離れた技師だったわけで、これなら売れるぞ、という決定的なゲームをなかなか生みだすことができなかったのです。


 写真7:1967?68年にかけてサンダース社で開発されたゲーム機(レプリカ) 

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▲左から右へ進歩をたどる。レバーを上下にガチャガチャ動かし温度計を下げる「pumping game(ポンプゲーム)」、一方が相手を捕まえる「FOX and HOUND(狐と猟犬)」。そして、ガンユニットがあるターゲットシューティングゲームなどさまざまなゲームが開発されていった。

 そんなおり、マネージャーから助っ人として派遣されたのがBill Rusch(ビル・ラッシュ)氏という人物。彼は遅刻の常習犯だわ、開発室でギターを弾くわ、会社の電話を使って馬券を買うわと大物ぶりを全開していたようですが、じつにクリエイティブな発想を持つ技術者であり、開発室で製作されていたゲーム内容を改良していく過程で、人ではなく機械が動かす第3の物体、という革新的なアイデアをゲーム内に持ち込むのです。

 

 写真8:機械が動かす第3の物体=ボールの登場 

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 これが後にODYSSEYの最大の目玉となる「PING-PONG(ピンポン)」の誕生につながります。それまでの直線的な勝利条件とは異なり、PING-PONGは、プレイヤーにお手玉のようなテクニックと反射神経が求められ、そこにスリリングな攻防が生まれたのです。

 開発はその後も重ねられ、やがて1968年1月、ピンポンや光線銃など7つの選りすぐりのゲームを内蔵した7番目の試作機「BROWNBOX(ブラウンボックス)」の完成を見ます。

 BROWNBOXとは茶色い本体カラーと、ブラウン管をブラックボックスにするというダブルミーニングで、ここからも、テレビ受像器を放送ではない何かに使う、といった意匠が透けて見えるようですね。

 

 写真9:BROWNBOX(ブラウンボックス)/1968年 

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▲2組のコントローラーに光線銃を装備。前面のスイッチの組み合わせでゲーム内容をセットする。



父親をターゲットにしたODYSSEY

 一般消費者向けの販売ルートを持たないSanders社には、量産型BROWNBOXの開発と販売の権利を売りこむパートナー企業が必要で、RCA、GE、Zenithといった大手家電メーカーにセールスがもちかけられました。しかし、1970年初頭、まだビデオゲームなるものはまったく認知されておらず、その魅力や将来性に投資しようという企業はなかなか現れませんでした。
 難航の末、カラーテレビなど映像機器を主力製品としていたMAGNAVOXが手を上げ、長期にわたる契約交渉の末、1972年11月、世界初の家庭用ビデオゲーム機がアメリカで発売されることになります。

 MAGNAVOXでは製品名をODYSSEY(オデッセイ)と名付け、モダンな外観とともに、遊びと教育に使えるエレクトロニクス・ゲームシミュレータである、とのコンセプトを打ち出しました。

 写真10:外箱に載っているイメージ写真 
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▲ODYSSEYは一家の主である父親層に向けてアピールされた。教育機器をうたう「ELECTRONIC TEACHER」の表記もチェック。

 映像機器メーカーとしては、主に自社のテレビを購入してくれる客層、つまり子どもを持つ裕福な男性へのアピールを考えていたのでしょう。ODYSSEYで遊べるゲームには、BROWNBOXにはなかった、アメリカの州名を暗記する内容や、カジノのルーレットなど、いかにもパパ受けするようなゲームがわんさかと詰め込まれています。
 「カードなどの使用はすべてMAGNAVOXのマーケティング決定です。ふり返ってみれば、彼らがすべてを本体から省いて、10または20ドル価格を下げたならばそれは売上高を増やしたでしょうね。人々は、ただとにかくスポーツゲームをしたかっただけですから」(Ralph Baer氏談/2003年)
 ODYSSEYの価格100ドルは1972年の円ドルレートで換算すると約36,000円。当時の家電紙を見ると、人気の8トラックのテープレコーダーが約99ドルの値ですから、いまで言えばiPodの最上位モデルくらいの感覚でしょうか?宣伝方法のまずさもあって(MAGNAVOXのテレビでしか映らない印象を消費者に持たせたのだとか)、売り上げはあまり伸びず、1973年初頭には早くも79ドルにディスカウントされています。

 

当時の人々の反応は?


 ODYSSEYで遊べるゲームはどれもプリミティブで、洗練されたソフトが無料かつ掃いて捨てるほどある現代人から見れば、とてつもなくつまらないものに映るかもしれません。比較的、創世記のビデオゲームに慣れ親しんできた筆者でさえ、ゲームサウンドが一切ないODYSSEYのゲームを最初に見たときは唖然としたものです。
 しかし、あなたが歴史の旅人ならば、飽食な現代人の感覚ではなく、当時の人々の素直な印象に耳を傾けてみようではありませんか。

 当時の体験者の感想を一言で表すならば、やはり「珍しい」という言葉がいちばん近いのかもしれません。Baer氏は前出の著書において、MAGNAVOX社の新製品発表会にやってきた販売業者やプレスのリアクションは非常によかったと述懐しています。
 どのようによかったのか?例えば下記の写真。テレビ画面を見つめる人々の顔は、一瞬たりとも画面を見のがすまいという緊張感に満ちているようです。

 写真11:ODYSSEYをプレイする人々 
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▲当時のODYSSEYのデモプレイをおさめた写真。右端はまだ若き(?)頃のRalph Baer氏。

 1972年の発売当時、ODYSSEYは日本では発売されませんでしたが、電子技術誌のコラムに、大阪大学工学部で情報通信の研究をされていた滑川敏彦教授と助手の村田正氏が、論文発表のために渡米した先でODYSSEYに出会った感想が載っています。
 '72年といえば、日本におけるカラーテレビの普及率が100%間近となり、家電メーカーや大学の研究機関が、テレビの新しい使いかたと新市場 を模索をはじめた頃です。当時、最大の輸出先であるアメリカでは広大な国土をカバーするためケーブルテレビの開発が進んでおり、BROWNBOXもまた、 MAGNAVOXに嫁入りする前はケーブルテレビ会社への売り込みが検討されていました(背景の映像をケーブル会社から送るシステムが提案されていたと か)。 大阪大学の両氏はそのような過程でODYSSEYとばったり出会ったのです。

 「CATV (ケーブルテレビ)の端末のひとつとしてこのようなビデオゲームを考えていた矢先だっただけに、これが単体でひとつの商品として発表されたのは大変な驚きであった。また当然考えられるIC化、LSI化にしても数歩後れを取ったと感じ、残念な思いをした」(電子技術1976年12号:特集 ビデオゲームの可能性を探る)
 おそらく、ここでいうビデオゲームとは、双方向ケーブルテレビシステムを使った映像式3択クイズのようなものでしょう(地デジ放送でよくやっているあれですね)。ですが、そういうものとはまったく次元の違う使われ方が発明され、しかもすでに製品化されていたという事実に、大きな衝撃と立ち後れを感じたということを述べられているわけです。
 いにしえより、日本は諸外国からさまざまな発想や技術を学んできたわけですが、TVゲームにおいてもまた似たような状態から始まったと言えるかもしれません。
 アメリカ、フランス、西ドイツなど世界各国で発売されたODYSSEYは、初年度で10万台、生産終了となる1975年までに36万5000台を販売しました。この数は予想より少なく、MAGNAVOXはがっかりしたそうですが、「つまらないゲーム機が果たして36万台も売れるものでしょうか?」とベア氏は胸を張ります。とはいえ、TVゲームの発明、すなわち”テレビゲームの基本特許”によるTVゲームの製造使用、販売などの独占的権利をSanders社より取得していたことより、MAGNAVOX社自身は、世界中の企業から莫大なパテント収益を得ることになるのです。

 

 

 

 

ビデオゲームは竹の子ではない

 

 なんと、今回ブログに掲載した貴重な写真の数々は、Ralph.Baerご本人の提供によるものです。筆者は1999年のClassic Gaming Expoにて氏と面談させていただいて以来、何度となく当時の貴重な話を聞かせていただく幸運をいただきました。本企画に賛同し協力いただいたRalphBaer氏に、この場を借りて、あらためて厚くお礼を申し上げたいと思います。

 最後にこんなやりとりを紹介して、締めとさせていただきます。


 ——ご子息があなたを知人に紹介する場合、「初めてビデオゲームを作った人物」と伝えたりするのでしょうか?——

Baer:
まったくないです。友人が知らないあいだに紹介することはありますけどね。『あなたはパックマンをつくったの? インベーダーをつくったの?』 いや違うんだよ。私はテレビでゲームをすることそのものを発明したんだ、と。そこで会話は終わってしまいます(笑)。

 雨の日に地面から草が生えてくるように、ビデオゲームなんて突然ぱっと生まれてくるものではありません。長年の技術の蓄積があってのことです。その前にテレビでゲームするという発想がないとできないのですよ。人々は突然できたのだと思うのでしょうけれど」(Ralph Baer氏談/1999年)


 

◆参考文献:
VIDEOGAMES:In The Begining(Ralph.H.Baer/ROLENTA PRESS/2005年)
The Ultimate History of Video Games(StevenL.Kent/THREE RIVERS PRESS/2001年)
電子技術 1976年12月号(日刊工業新聞社)

 

◆協力:Ralph.H.Baer氏(写真5?7、9、11)
http://www.ralphbaer.com
次回更新は、12月25日(火)の予定です。

2012年12月21日 16:51