第3回:「TVゲーム誕生前夜の家電業界」
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こんにちは、朝風の密使、武宗しんきろうです。
今回は、日本にTVゲームが登場する前夜(1972年~74年)にフォーカスをあててみたいと思います。
ビデオゲームがない日常。僕たちの日本にもそんな時代があったのですね……なんてアンニュイな気分にひたっている場合ではありません!
周りをごらんなさい!スマホアプリの大攻勢で可処分時間争奪戦は超加熱。食事、ジョギング、お風呂の中にまでにソーシャルゲームが割り込んでくる始末ではありませんか。
こうなれば我らがレゲ娘だってだまっていられません!レゲ娘の狙いは……え? 下校時間だって!?
※本連載では、TVゲーム=家庭用据え置き型ビデオゲーム機と定義します。
※価格は新発売時のものです。
※メーカー名は当時のものです。
※文中のデータなどは当時の資料をもとに武宗しんきろうがまとめたものです。
ソニーの未発売テレビゲーム
まず、興味深い写真からご覧いただきましょう。2002年〜2005年に開催された「本田宗一郎と井深大-夢と創造-展」のソニーブースに展示されていた「試作 TVゲーム(A prototype TV game machine)」です。
写真1:ソニーの「試作 テレビゲーム」
▲左に並んでいるのは、スチルカメラやカムコーダー(8mmビデオカメラ)の試作機。サイズは280×135×370mmというから、初代PS3をさらに2倍くらい厚くしたような感じ?
おっと! いきなりプレイステーションのご先祖様登場でしょうか!? 説明ボードには「家庭のテレビでゲームを楽しみたいとの思いから、テレビゲームの開発に着手。ソフトはカートリッジ式だった」との解説があります。しかし、それ以上の紹介はガイドブックやパンフレットにも見あたらず、今回、編集部を通じてソニー広報センターにも調べていただいたのですが、残念ながら詳細はわからないとのこと。年代が不明な上に試作機では追跡も困難ですよねえ……。
本体にはジョイパッドなどは見あたらず、フロントには「こたえ」(1)(2)(3)という3択ボタンが見えます。そして「すすめ」と示された青いボタン。これらは何を意味するのでしょう?
ソフト次第の対話型学習機
ソニーの創業者のひとりである井深大氏の教育分野への熱心な取り組みは広く知られています。そのため、ソニーでは教育現場や職業訓練向けの学習装置の開発にも大きな力がそそがれてきました。
その中に個人向け学習機器というカテゴリがあります。最初は、テープレコーダーなど音声学習機からはじまり、やがてVTRや磁気カードを使った映像型学習装置が加わり、そして1970年代中期になると、映像制御にマイコンを使用し、かんたんなインタラクティブ性を持つ装置が登場しました。
たとえば、1976年9月のエレクトロニクスショーに、ソニーは幼児向けの教材「トーキングカード」などとともに、VTR映像で出題される問題に4択ボタンで回答し正解数を競うふたり用マシンを出品していますが、これは当時の複数の電子技術誌においてソニーのビデオゲームと紹介されています。つまり、ソフト次第でクイズゲームにも視聴覚学習にも対応する機器が開発されていたわけですね。
そこで問題の「試作 テレビゲーム」です。もし正体が上のような学習マシンであるならば、「こたえ」(1)(2)(3)は3択問題の回答ボタンでしょうし、「すすめ」は、回答が表示されたあとの映像一時停止解除機能ではないかと推測するのです(問題が先にどんどん進んで行っては困りますものね)。
もちろんこれはただの想像に過ぎません。映像は電子的に発生させたのか、はたまたソニーのベータマックスを使っていたのか……。「テレビゲーム」と公式に名うたれている限りは、いつぞやプレイステーションの原点?として、真相解明される日がくることを願ってやみません。
写真2:ビデオレスポンダーシステム(1980年)
▲こちらもソニーが開発していたVTRと連動する対話型ビデオ学習システム。開発は長期に及んでおり、発表された時代によって仕様やデザインは大きく異なる。
価格は学習機(手前左)が12万円、テストデータ制作機(同中央)が38万円、プリンタ(同右)が11万円。
調整装置から遊戯装置へ
さて、日本のTVゲーム(=家庭用据え置き型ビデオゲーム)の歴史をたどる本ブログですが、業務用などビデオゲーム全体の流れまで追ってしまうと、とても収まりがつかなくなってしまいますので、据え置き型以外については、今回は【表1】に示すのみでご容赦ください。
1970年の大阪万国博覧会に展示された「電車の運転テスト」など興味が尽きないところですが……。
表1:最初期のビデオゲームの例
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1958 Tennis for two(Brookhaven国立研究所 | アナログコンピュータ)
1967 SPACEWAR!(MITS | PDP-1)
1970 電車の運転テスト(万国博古河館推進委員会 | 富士通FACOM270/30)
1970 月旅行/シングルへの道/コンピュータ・アート(IBM | IBMシステム/360)
1971 COMPUTER SPACE(Nutting Associates | TTL-IC制御)
1972 ODYSSEY(MAGNAVOX | アナログ回路)
1972 PONG(ATARI | TTL-IC制御)
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ところで、TVゲーム機登場以前に、家庭用テレビジョン受像器に放送以外の映像を映す装置ってあったのでしょうか? はい。一応そういうものは大昔から存在しました。一応というのは、受像器の回路調整を行うための測定器といった非コンシューマー分野になるからですけれど。
絵的にわかりやすいのは「パターンジェネレータ」(下の写真)という、テレビの画面制御回路を調整するために、規則的なグラフィックパターンを表示させる装置です。
写真3:松下電器のパターンジェネレータ(70年代後半頃)
▲ブラウン管に規則的なパターンを表示させ、直線性や幅の調整を行う目安にする装置。テレビメーカーの研究室、生産工場といった場所で使われていた。日本でテレビの量産がはじまった昭和27年頃は冷蔵庫なみのサイズだったが、小型化されてからは、サービスマンが修理時に持参することも。
パターンジェネレーターは、静止画を発生させるだけのテスト装置で、あそびのソウルは入っていませんでしたが、テレビ受像器で何かおもしろそうなことができるんじゃね?と予感をさせるマシンだったようです。
1951年、Loral(ローラル)というテレビメーカーに勤めていたある技師が、このような模様が描ける装置からゲーム的なものをつくるのはたやすいですよ、と上司に提案したことを著書に記しています。彼こそ、後にTVゲームの父と呼ばれる若き日のRalp.H.Baer(ラルフ・ベア)でした。しかし、その回答は「忘れろ。君はスケジュール通りにテレビを組んでいればいいんだ」とにべもなかったそうです。
それから約20年後、Baer氏の構想は、世界初のTVゲーム機「ODYSSEY(オデッセイ)」(写真4)の誕生へと結実するわけです。ローラル社、大きな魚をのがしてしまった?
写真4:ODYSSEY(1972年)
▲世界初のTVゲーム機(家庭用据え置き型ビデオゲーム機)。くわしくは次回以降で紹介。
TVゲームに興味のなかった家電業界?
さて、本題はここから。
世界初のTVゲーム機・ODYSSEYは、フランスやドイツなど各国で発売されましたが、MAGNAVOX(マグナボックス)社は日本では販売ルートを持っていないためか、エージェントを通じて各社に売り込みをかけていました。その対象は家電メーカーだったようです。ところが、日経産業新聞1976年3月17日号によると「当時は時期尚早として断わったといういきさつがある」との記載が。
こんな話もあります。黎明期のTVゲーム機メーカーとして有名なパッケル測器の社長・新井容徳氏は、新宿や池袋の繁華街でプレイされていたアーケードマシンに着目し、「これを家庭用に応用したらおもしろいと考え、1973年11月、国内で最初のホームビデオゲーム機器の開発を行った。しかし当時、電波新聞社等にホームビデオゲームの話題を提供してみたが誰も興味を示さなかった。」(ビデオゲーム総合資料集/第一インターナショナル/1977年)と証言します。なお、電波新聞社とは、電機メーカーや小売店向けの読者が中心のエレクトロニクス専門紙「電波新聞」を発行する新聞社です。
なぜ、日本の家電業界はTVゲーム機に消極的だったのでしょうか?
時期尚早と考えられた理由
実際、消極的だったのは日本だけでは無かったようです。その電波新聞、1975年、アメリカはクリスマスシーズンにおけるTVゲーム機の好調な売行きに対し、 「テレビ・メーカーは今のところあまり強い関心を示しておらず他人任せといった状態だ」「テレビ・メーカーが俄然として手を付けたがらないのは『この機械はあまり高い技術を必要とせず誰でも生産できる』ためで、例えばシルバニアは調査の結果それほど利益があがる製品ではないと分かったとしている(電波新聞1975年12月18日号)」、と、現地メーカーの冷ややかな目をレポートしています。
また、メーカー内部からは次のような声もあがりました。
早くから家電業界に”遊びのエレクトロニクスの可能性”を提言していた東京三洋電機エレクトロニクス事業部(当時)の中原紀氏は、「気がかりなのはMAGNAVOX社が所有している国内特許」と指摘します。「日本で製品化する場合、なんらかの形でこれに拘束されそうだ。事実、数年前にマグナボックス社から、わが国の家電メーカーにラインセンス契約の話が持ち込まれたいきさつがある。」(ブームを呼ぶ電子ゲーム化機器(2)/電子材料/1976年5月号)」
ここでいう「気がかり」とは、ズバリ特許使用料のことでしょう。当時、TVゲーム機を製造するには、1台につき工場価格の約5%の特許実施料で10万ドル(当時のレートで3,000万円)という金額を、TVゲームの製造使用、販売などの独占的権利を取得していたMAGNAVOXに前金で支払わなければなりませんでした。
大手企業にとってはパテント料はさしたるリスクではないと思います。ただし、MAGNAVOXがセールスをかけていたであろうこの頃(1972年~1975年頃)は、当のMAGNAVOXですらODYSSEYの販売数が予想を下回っていたような状況だったのです。
どのようなソフトをつくればよいのか? 開発期間や製品寿命のサイクルは? TVや人体への悪影響は? そもそもTVゲームって商売になるのか? 不明瞭な見込みの山積から、各社が「当時はまだ時期尚早」と結論づけていたのも仕方が無かったのかもしれません。
シャープが開発していたビデオゲーム
しかし、本当に家電各社がビデオゲームに無関心だったかというと……実はまんざらでもなかったようなのです。【表2】をご覧ください。ご存じ家電大手メーカーのシャープ株式会社が、1970年代に取得したビデオゲーム関連特許の一部です。
表2:シャープが'70年代に取得したビデオゲーム関連特許の例
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●特開昭50-010911
一般の放送受信用のTV受像機を用いて家庭で簡単に自動車運転ゲームができるようにすること
●特開昭50-023523
TV受像機を使用して模擬的なボーリングゲームを行う装置
●特開昭50-033718
通常のTV受像機の映像再生画面を使用して模擬的な卓球ゲームを行う装置において、プレイヤーが画面を見ながら各種の手動操作を行って模擬的なゲームプレイを楽しむことができるようにすること
●特開昭50-049914
通常のTV受像機を用いた模擬的な自動車運転ゲーム装置
●特開昭50-085219
テレビジョン受像機で魚とつり針につけた餌をそれぞれ自由に移動できるようにしてゲームを行うこと
●特開昭50-105314
TV受像機を用いてテニスゲーム等を行う装置において、プレイヤー像がボール像をあたかも打ち返した如く変形するようにして興味を増すこと
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写真5:テレビジョンゲーム装置(公開特許より一部抜粋)
▲シャープが1974年1月に登録申請した魚釣りゲームの特許。名称は「テレビゲームソウチ」となっている。公開番号:特開 昭50-105314(特許電子図書館より)
いやはや、最初にこれらを目にした時はひっくりかえりました。だって、当時のシャープもまた「正直言って海のものとも山のものとも判断つきかねる。しばらくは状況を見極めたい(桂泰三取締形海外事業本部長/「ビデオゲーム語録(2)」/電子技術1976年12月号)」とにごされていた企業のひとつだったからです。
表組の最初にある自動車運転ゲームなどは「家庭で簡単に自動車運転ができるように……」と書かれていることから、家庭用TVゲームと考えてまちがいないのでは?
シャープがビデオゲーム(家庭用機含め)の研究をしていた理由、そして特許をいくつも取りながらも製品化しなかった理由はどのあたりにあったのでしょう? これこそが今回のブログの最大のポイントでした。 実は筆者の耳には、シャープだけでなく、他の家電メーカーでもこの頃ビデオゲームの研究開発を行っていたという情報もはいっていたのです。ひょっとして、日本のTVゲーム史を動かしてしまう新事実が発掘されるかも……?!
勢いづいた筆者は、今回資料調査でご協力いただいた栃木県にあるシャープ・デジタル情報家電事業本部様に当時の関係者の方々への取材のお願いをし、四方手を尽くしていただのですが、何しろ当時の方々はみなさま定年退職されておられいるということで、残念ながら実現にいたりませんでした。む、無念……。ただ、同時に追跡に関するいくつかのヒントもいただきましたので、引き続き調査を継続しつつも、今回はひとまず宿題という扱いにさせていただけたらと思います。
ちなみに、ゲームの歴史に詳しい某ゲーム開発会社の社長さんに「あなたはどう思う?」と意見をうかがったところ、「開発的には、注文があればいつでも製品化できる用意はある、そんな考えだったんじゃないかな」、との答えをもらいました。
教育分野だけに市場性がみえた時代
そこでまたまた冒頭でご紹介したソニーの試作TVゲームです。教育用機器という分野は、家庭用市場開拓のための第一ステップとして、当時は唯一、それなりの市場性が見いだせた分野といえました。発売当初は高価だったテープレコーダーや家庭用VTRにしても、まず学校や病院、研究所の視聴覚室や、企業の研修、技能訓練用として会議室に置かれることから浸透がはじまっています。もし、家電の王道を進んでいれば、日本初のTVゲームは、もしかしたら教育的なクイズゲームからはじまっていたかもしれませんね。
しかし、そこはさすがに娯楽の本筋といいますか、実際には遊興地から人気ゲームソフトがとびだし、半導体量産技術の進歩の流れにのることで、先の電波新聞の記事で紹介されていた1975年のクリスマスシーズンを境に、怒濤のごとく売れ出すという歩みをたどるのです。それは後々の連載でみなさんと見ていくことにいたしましょう。
次回は世界初のテレビゲーム「ODYSSEY」の誕生の物語にせまって行きたいと思います。
◆参考文献:
・Videogames:In The Begining(Ralph.H.Baer/ROLENTA PRESS/2005年
・Supercade(van burnham編/MIT Press/2001年
・bit/1970年2月号/共立出版
・テレビ技術/1976年12月号/電子技術出版
・電子技術/1976年12月号/日刊工業新聞社
次回更新は、12月21日(金)の予定です。
2012年12月18日 16:45