E3の戦争ゲームのデモから感じること・変化する意識の一端(下)

■「未来少年コナン」の銃弾は当たらない
 

 ふと思い立って、最近、宮崎駿氏が超人的な活躍をもって制作されたことで知られ、多くのアニメ制作者に影響を大きな与えたテレビシリーズ「未来少年コナン」(1978年)を全話見直した。主人公のコナンの超人的な活躍は、明らかに人間じゃなくて、ミュータントだよねとか、苦笑気味に感じながら見たのだが。
 

 それより久しぶりに見直して、ちょっと、びっくりしたことがあった。意識の違いが、今の時代とあることに気がつかされたのだ。
 

 「コナン」の世界は、世界が一度滅んだあとの生き残った人々の世界だ。そのなかで「インダストリア」という生き残った勢力が戦艦や、飛行機、銃といった武器を持ち、すべての大陸を支配したい野望持つレプカという悪役を中心にコナンと対立する。マシンガンなどの火器で武装した、インダストリアの兵士たちは、コナンたちの動きを封じようと、雨とあられと弾を撃ちまくる。
 ところが、驚くほどに、当たらない。

 

 

■「インダストリアの弾もたまには当たるのよ」
 

 見ていて、銃を持った人が現れても、危機感をまったく感じなくなるぐらい。
画面一杯に弾筋が流れていても、見事なまでに、コナンを通り越えていく。かすりもしない。なんと、ゲームバランスが悪いアニメだと苦笑した。
 

 コナンに味方する元インダストリアの女性キャラクターが、後半の重要なシーンで、一度、敵に銃を当てるシーンがある。「インダストリアの弾もたまには当たるのよ」という台詞をその後に言った。それで、そこでは吹き出してしまった。宮崎駿氏自身も、演出しながら、当たらないよなあと思っていたのかなあと。
 

 振り返って考えると、70年代から、80年代のアニメでは、とにかく、敵が主人公に発砲する銃の弾は当たらない。よく考えたら映画「インディ・ジョンーズ」シリーズも似たりよったりだったなあと思うので、当時の一般的な価値観だったのだと思う。
 

 多分、銃撃戦のリアリティは、画面を派手に見せるためのシーンを盛り上げるための要素のようなものだった影響もあるのだろう。今から見直すと、いくら撃たれても、どうせ当たらないと思ってしまうので、身構えることもなく、緊張感が薄い。

■簡単にプレイヤーが死ぬ現代のゲーム
 

 現在の銃撃が混じったシューティングゲームでも、シングルプレイ時には、敵の弾は基本的には当たらない。それでも、「未来少年コナン」よりは当たる。無防備に、堂々と敵の前を走り抜けようとなんて、馬鹿なことはしない。さすがにクリアできない。マルチプレイはもっとシビアなのは、言うまでもない。対戦相手は、インダストリアの皆さんのように手加減してくれない。
 

 いつ何時、自分が殺されたのかは、まったくわからないことも多い。狙撃用ライフルで狙い撃ちにされたときには、こちらの呑気な動きに腹が立つ。一方で、たまたま動き回っていたときに、飛んできた手榴弾で吹き飛ばされて死んでしまうことも少なくない。
 

 実際の戦場では、かなりの率が銃撃による弾によって死傷するのではなく、手榴弾や爆薬などによって壊れた物の破片によることが多いという。ただ、どこからか飛んできた破片であっさり死んでしまうリアルな仕組みを追求して、ゲームに導入したら、多分、誰も納得しないクソゲーができあがるだろう。ゲームの中では、誰かが、誰かを殺したという因果関係が明瞭でないプレイヤーは納得しないものだ。

■銃の描写への常識はこの30年で変わっている
 

 ただ、この事実取ってみても、70?80年代に銃撃戦が使われる「未来少年コナン」のような映像を見ていた時代と、現代を生きる我々は、大きく意識が違っていることに気がつく。
 

 銃のゲーム遊んでいる人たちは、銃撃を撃ち込まれれば案外と人は簡単に死んでしまうということを感覚的に知っている。そのため、今の時代に、「未来少年コナン」の銃撃戦のように、蜂の巣のように銃撃されながら、弾が当たらないというのはあり得ないということだ。そういう演出をみたら、違和感を感じるはずだ。

 

 

 こういうことは、銃が後でばりばりと火線を退いている時代と比べて、人間の持つ常識が、メディアの変化によって、いかに簡単に変わってしまうのかを、示していることのように思える。
 

 仮に、今の時代に、コナンが映像として、作られるとしたら、マシンガンで蜂の巣になるとどうなるんだろうか。身体を硬化させて無力化したりするんだろうか。逆に、今、「未来少年コナン」をゲームで忠実に再現したら、やっぱり山ほど弾が飛んできても当たらないので、クソゲーと感じるだろうなあと思う。

2011年6月28日 17:54