人間がゲームを好むのは根源的な理由がある?ゲームと遺伝子(1)

 なぜ、我々はゲームが好きなのだろうか? なぜ、ゲームを遊び続けるのだろうか? 当たり前の様な質問だが、実はあまりはっきりした答えは出ていない。もしかしたら、そもそもゲームを遊ぶこと自体が、本能的なことであるというのは、一般的にはピンとくるかもしれないが、それがさらにもう一段階進めて、人間の遺伝レベルに組み込まれているとまで述べたら、驚くだろうか。

 

■遊びは文化によって作られるのではなく、より根源的なもの

 

 ゲームを論じていく上で、学術上のスタートともいうべき書籍は、オランダの歴史学者ヨハン・ホイジンガが1938年に書いた『ホモ・ルーデンス』からと一般的にはなる。この本の大前提にあるのは、「遊びは文化よりも古い」と論じている点だ。遊びの活動には5つの特徴があると論じている。

 

(1)遊びは自由である。

 

(2)遊びは"普通"で"現実"の生活ではない。

 

(3)遊びは空間と時間の両方で"普通"の生活から別のものである。

 

(4)遊びは手順を作り、手順そのものである、そして、遊びは絶対的でしっかりとした手順を必要とする。

 

(5)遊びには物理的な関心によるものではなく、利益を得ることができない。

 

 

『ホモ・ルーデンス』(中公文庫)

 

 当時は、現在のように「遊び」が、テレビゲームという形で明快な「メディア」にまでは当然なっていない。我々の時代のように、「遊び」がはっきりとしたルールを持つ「ゲーム」というものとして認識されるようにはなっていない。

 

 ただ、ホイジンガの論じているポイントは現在から考えるととても重要な意味を持っている。

 

 1938年という時代は、「文化」というものの上に、人間の高度な活動が作られていると考えられていた時代だった。「人間は他の生物に比べて特別な存在である」とするのが一般的だった。

 

 ところが、ホイジンガは「遊び」のような高度に感じられるような活動は、人間の文化といった高度な部分により生みだされるのではなく、より深い本能的なレベルによって影響を受けていると述べたことで、当時の一般的な考え方に、ストレートに疑問を投げかけた。

 

 ホイジンガは、例として子犬のことを書いている。

 

「人間の遊びの神髄についてしっかり知りたければ、子犬の様子を眺めるだけでいい。楽しげにはしゃぎまわる犬の姿にそれは現れている。犬たちは、決まった態度や仕草でお互いに遊ぼうと競い合う。彼らは、相手の耳を噛んではいけないとか、本気で噛んではいけないといった約束事を守る。(略)こうした一連のやりとりの中で犬たちは大きな楽しみや喜びを味わっているのだ。

(中略)

 ここでただちに大変重要な点に行きあたる。動物のもっとも単純なものでさえ、遊びは単なる生理現象や心理的反射といったことにはとどまっていない。遊びとは、純然たる身体活動や純然たる生物としての活動といった範囲を超えている。遊びとは大変重要な機能であり、いわばそこにはなんらかの意味があるのだ。遊びには、生命の内発的な必要を超えて、その遊びという行為に意味を与えるようななにものかが「働いている(プレイ)」のである。遊びというものには必ずなんらかの意味があるのだ」(※1)

 

 

 この議論は、ゲームの特徴を理解していく上でのスタートになってきた。ケイティ・サレンとエリック・ジマーマンのゲームデザイン論の大著『ルールズ・オブ・プレイ』では、この議論を「ゲームが本来人工的なものだということを指摘している」(※2)と重要性を認めている。

 

 

『ルールズ・オブ・プレイ(上)』(ソフトバンククリエイティブ)

 

 

 この書籍では、ゲームとは何かということを定義するために冒頭では長い議論が行われる。ただ、ホイジンガの議論でゲームを定義するには、限界があることを指摘している。

 

「一方で、包括的で一般性の高い議論には最大の弱点がある。煎じ詰めて言えば、『遊び』と『ゲーム』を区別していないのだ」(※2)

 

 「遊び」よりも「ゲーム」は狭い範囲を意味していると議論されている。そうでなければ、「人生のすべてがゲームだ」、ということと、「テレビゲームで使われているゲーム」が同じ土俵に置かれかねない弱点を抱えている。

 

■ホイジンガが着目した文化の外側にある点

 

 『ルールズ・オブ・プレイ』は、遊びとゲームを区別できる大系を整え、「ゲームを文化的な存在として位置づける」ことを可能にしようと書かれた著作だ。ただ、今、私が議論を進めようとする方向は、ゲームデザインとは何かという議論ではない。

 

 ホイジンガが「ホモ・ルーデンス」を書いた時代は、ナチスドイツが勢力を伸ばし、ソ連を中心に共産主義を標榜していた時代だ。文化を生みだした人間は、中世から進歩してきたと論じられるのが一般的であり、それらの考えの延長線上にナチスも、共産主義もあった。

 

 しかし、ホイジンガは、「遊び」にみられるような、もっと原初的なものこそが、世界中に共通してみられる現象であると考えていた。私が着目するのは、ホイジンガが見ていた子犬同士が遊んでいる姿だ。遊びは文化の外側からはずれた、生物の原始的なレベルから生まれている可能性から考えを進めていきたい。

 

 先に結論を書いてしまうならば、最新の研究では、「人間には戦争をする遺伝子」が組み込まれている可能性が高いと見られている。

 

 それが一方で、我々にゲームを楽しいと感じさせているのでは、と私自身は考えている。「ゲーム」とは、人類誕生から200万年という長い、常に続いた生存を賭けた戦争によって形成された遺伝的な要因に影響を受けている可能性がある。

 

 子犬であれ、人間であれ、ゲームを好むのは、自らの生存のための戦いの準備作業であり、訓練である可能性がある。

 

 ただし、人間は常に戦争を行うのではない。

 

 我々が生きている時代は、幸せだ。なぜならば、生存のために、食料を獲得すべく戦争をする必要がないからだ。ゲームを楽しむ環境は、世界が平和である時代でなければ難しい。遺伝子にはオンとオフの状態がある。平和な時期は、組み込まれている遺伝子は、オフの状態となり、ゲームを楽しむことができる。

 

 我々の今の時代は、その遺伝子は幸いなことに基本的にオフになっていると考えられる。

 

 しかし、普段はオフになっているその遺伝子は、一度スイッチがオンになれば、残虐的な一面を持つことになる。

 

 それを最新の研究を組み合わせながら紹介していきたい。


 ホイジンガは、1942年ナチスを批判したために、強制収容所に収監され、釈放されるものの軟禁状態に置かれ、終戦の直前に亡くなっている。

 

 

(※1)ヨハン・ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(中公文庫)P.15?16 ただし、訳については『ルールズ・オブ・プレイ』の翻訳者山本貴光氏のものを参照している。

 

(※2)『ルールズ・オブ・プレイ』(ソフトバンククリエイティブ)P.151

2012年9月24日 19:03