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[隠れ家・天正院] トピック

2017年10月12日
18:52

仙樹の呟き4

仙樹の呟き、4つ目。

いたづらに 生き抜く勿れ ほととぎす

書き込み

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2017年
10月14日
22:57

仙樹らしくないが、たったさっき、長谷川等伯に主眼を置いた番組が放送されていた。等伯と、息子・久蔵2人の絆に着目した番組だった。
酒を煽りながらこれを見ていた。主に『楓図』・『桜図』の二つを中心として構成されていた。息子の久蔵は早くに病死してしまうのだ。これに悲しんだ等伯は、松林図を描く。

等伯の作品、俺は大好きだ。
でも、久方ぶりに久蔵の『桜図』を見たが、何と良いのだろう。桃山文化らしい桜の花の咲きたる絵図。夜に見れば、背景の金色が艶やかに桜の淡い色を映し出すんだろう。あぁ、ぜひ手元で見てみたいもの。桃山時代、最も優れたる絵師は、長谷川久蔵を除いて他にない。桜の描き方にも着眼点を置いていて、良き番組だった。

別に泣き上戸ではないはずなのだが、泣いてしまった。
桃山文化はやはり、明るい。当時の人々も明るかったんだろう。それに引き替え、現代はどうしたことだろう。

等伯の作品の中でも俺は『枯木猿猴図』が好きだ。
これも久蔵死後に描かれたものだ。『楓図』に比べて、桃山文化らしさが、サッ、と音を立てるように、等伯から消えて行く。こういう地味なものに変わっていく。
『松林図』もそうなんだ。何だか寂しい。

でも、この『枯木猿猴図』は、少し違う。何だか、笑っているんだ。
「そういうこともあったな。まぁ、しゃああんめェ。今の俺は元気だよ」とこう、笑っているように感じる。壮齢の猿のように感じた。「おきなさび」というのは、あぁいうことを言うんだろうか。

何より、等伯の絵は生きている。生まれて、藁って、恋をして、挫折をして、そして何らかの形で実を結ぶ。その生き様が、何だか見えて来るんだ。
誰だってそうなんだ、人生、楽ありゃ苦もある。そういうもんだ。俺だってそうだ。
そして、その絵の中の「主」と、自分が、出会う。
まるで森の中で、ばったりと会って、目が合うように、猿猴と出会う。そして、その猿猴は、笑う。それは猿猴に限らず、松も、楓も、同じなんだ。そして、動いて見える。生きているように感じる。

等伯の絵は、凄まじい。
それと同じ技術を、息子の久蔵も持っている。何て凄まじいんだろう。感動する。
昔の等伯の絵は、さしたることはない、普通の絵だ。だけど、晩年の等伯の絵は凄まじい。見た者を圧倒する。感動する。

ただ、等伯を描くと、どうしても狩野派が悪者という立ち位置になってしまう。狩野派の絵も素晴らしいのだぞ。とちょっと思ったり。

等伯、良き。
仙樹の呟きその4、その嚆矢は、少し意外な人物によって放たれた。だが、良い。何となく、仙樹らしいじゃないか。
美術という専門でない分野、等伯という今まで語られることのなかった人物、なのに戦国時代という結局は仙樹らしさ。

涙は止まった。笑顔がやまぬ。

2017年
10月15日
23:09

個人の価値についてもう一考。

昔、個人の価値というのは、考える必要がなかった。
「社会」に、自分は必要とされていると分かっていたし、自分は誰かを必要としていると分かっていた。だから考える必要がなかった。
今は違う。社会という概念。というより、自分の社会と他の社会というのが、かなり曖昧、というか多彩。はっきりしているものもあるし、ぼんやりと同じ社会にいるような気がする人とか。

いま社会なんてのを考えるとキリがない。
自分がいる、大学・会社に同輩・上司・部下がいて、んで町があって都があって、日本があって、世界があって、地球がある。しかも地球の外にまた宇宙がある。あまりにも大きすぎる社会の中に、あまりにも小さすぎる自分がいる。そりゃ自分が何をしたところで、この大きすぎる社会が変わるはずがない。政治とか、会社とか。
まぁそりゃ自分と世界の関係性なんか考えるはずはない。そりゃ当然だよ。でも、自分は「世界」という概念を知っている。

昔の人は違う。例えば江戸時代の百姓だったら、家族という社会があって、更に寄合があって、村・里がある。そしてその先に、国があって、何となく日本があって、更に日本の外には朝鮮・中華・欧米っていうのがどうやらあるらしい。でもそこまで。
自分は家族に必要とされている。自分がいなければ、租税を納められない、子どもに飯を食わせられない。寄合に行けない。逆に自分は家族を必要としている。飯を炊く、子守をする、洗濯をする、とか。だから小さいけど「集合体」に存在していて、存在していなければならない。「競争社会」ではない、「共存社会」。で、この社会の中に、たまに葬式のために僧侶が入ってきたり、徴税のために武士が入ってきたり。異なる社会から「客」が来るワケだね。

今は全然違う。家族全員でご飯を食うなんて時間は滅多にないし、共働きがどの家でも普通だから家族でいる時間がない。友達と遊ぶ時も、たまに他の人が入ったり出たりする。誰が自分を必要としていて、自分が誰を必要としているのか、あまり可視化されない。恋人くらいじゃないかな。それでも恋人だって「重いのは嫌だ」とか言って、必要とし過ぎれば嫌悪される。そのくせ大学も会社からも馬車馬のように、人でないかのように扱われるんだから、必要なのか否か全く見えて来ない。そのくせ英語やれだのグローバルだの世界レベルを求めて来る。「世界」の存在しか知らない(本当に外国で働いたワケじゃない)から、こういう現象が起きるんだ。
(ちょっと話それるけど『クレヨンしんちゃん』は核家族のモデルで公民の教科書にも載るけれど、これもとっくの昔の家族モデルだから、もう過去のものだよなぁ。現代の家族モデルで正しいのって、どんなアニメだろ。現代の人に一致していて、教科書に載せられるレベルで日常系で、しかも認知度が高いアニメ…? 『君の名は。』か? 昨今のアニメは、黄金パターンを用いないことが多いもんね)

いずれにせよ、自分が認められる、ということがあまりにも少ない。昭和で全部破壊されて、平成にインターネットが出て全く異なる社会が構築されて、変わってしまった。その代償によって、こういう「自分とは何なのか」という問題が出て来た。

で、『けもフレ』が出て来たと。
ほとほと嫌な時代になってしまった気がする。
そういや、俺が友達増えていくのは、人を「才」で見て行くからなのかもしれない。この話はまた次回にするとしよう。

…友人のシュウヤ氏のツイキャスを聴きながら書き込んでるので、変な言葉使ってたらゴメン。

2017年
10月18日
01:40

誰かと仲良くなる時、決して人相やファッションだけで判断してはならない。
まず第一優先は「才」だ。何よりも「才」で人を見るべきだ。「能力」ではない。何が違うかと言えば、「~~が出来る人」ではない。「~~が出来そうな人・完璧ではないが上手な人」だ。

例えば絵を描くのが好きで、まだ人に見せられるレベルの画力でなかったとしても、その努力を称えるべきだし、自分が持たない能力を身に付けようと努力しているのだから、応援するべきだ。

ついつい、大学教授とかでも成績や素行、出席状況などで判断してしまいがちだが、誠実さ、何をやりたいのか、自分がどう他人に思われ・見られているのか、こういったことを知っている人の方が、仲良くなった時に不快感がない。
逆に、成績が取柄の人間なんかだと、一歩その「成績と関係ない社会」に出たら、一気に価値がなくなる。

人には良し悪しあるものなのだから、短所は可能な限り見過ごしてあげて、長所を見て、伸ばして、褒めるべきだ。そうすれば、自然と良い人間が集まって来る。まぁどうしても言動とか清潔感とかで許せない人間なんていくらでもいるけどね。発達障害とか俺メチャクチャ嫌いだし。

ただ、俺くらいになると、自分の「才」を利用して、生き残ることに利用する。俺はこの平和な日本で全く役に立たない兵学を、巧く活用して仕事したり難題をクリアしていく。これはなかなか人に出来るものではない。「能力」を活かす人間というのは、そういう人間なのだが、そんな人はなかなかいない。老人になっても出来る人の方が少ないんだ。

2017年
10月18日
09:43

この前、友人の女性と電話していた際に、「仙樹は仁徳の人。徳のある人だよね」って言われたけど、全くそんなことはない、と否定して、「俺はね、自力救済をする人なのよ」と返してあげた。とっさに、こういう言葉が出て説明したけど、改めて考え直してみたいと思う。

自力救済ってのは、「呟き3」で書いたけれど、まぁ端的に言えば、「自分の身は自分で守れ」と。これは言い換えれば、「自分のことは自分でやれ」と。
そんなの当たり前じゃんと思うが、こう言い換えると、話は変わって来る。「自分のやりたいことは、自分からやれ、待つな」と。
仕事や課題だってそうなんだ。自分で「この問題をどうにかしたい」と思わずに、ついつい放置してしまったり、期限ぎりぎりで「やらされる感」満載でやる。それって辛い。
大学に行くと、色々な人と出会うから分かるが、自分のことを全くやろうとしない人ってチラホラといる。自分の最低限度のことしかやろうとしない人はもっと多い。楽単だけ取って、取り敢えず大学卒業して就職することだけを考える人。そんなことをしていても、自分の「才」も「能力」も何も身に付かない。唾棄すべき人材だ。
これの次に多いのは、やりたいことあって、やるけれど、キャパオーバー起こす人。これは自己管理能力が足りない。しかもそれされると他人も助力しきれない。単純にこういう人を見ると哀れだなぁとしか思えない。まぁ大学ならいくらでも失敗できるからいいんだけど、社会に出るまでに自覚しろよ、と。

自力救済は、中世の根幹を成す考え方だが、実は現代も共通することは多い。橋下徹も似たようなことを言っていた。「いまの日本は自己責任が原則。誰も救ってはくれない」と。
ついつい、SNSとかで友人とつながっていたり、親が責任取ってくれたりで、錯覚してしまうが、実はそうではない。この世を海で例えるなら、潮は満ち潮で、風は突風で、波は大荒れなのだ。我々はコウカイをする。けれど、何が何でもこの世の中を生き抜かなければならない。

大学は、ある意味でそれを小さくしてくれたもの。テキトーに生きることも出来るが、それを俺は望まない。途中で座礁する者、波にさらわれる者、進路を変える者、引き返す者、あるいは飛行機で飛んでっちゃう者だっていやがる。
どうせ行くんだったら、船はより高性能で、大きくて、近代的・現実的な方が、よく進む。それには航海士、操舵、機関士…色んな人材がいた方がいい。「仁徳」という大仰で、一言でまとめられるような船ではないのだ。もっと打算的な理由がある。でもその根本は、自力救済を重ねに重ねた結果。

勘違いしないでほしいのは、「誰も助けてくれない」っていうネガティブな理由でやってるんじゃない。裏を返して言うなら、「自分が困らなければ、それに越したことはない」とか…いや何か自己中心的だな…?ww 人に助けてもらうのだって知恵の一つ。他力本願の話もだいぶ前にしたなぁ。でも、目に見えない何かが助けてくれる時代ではない。金だったり、保険だったり、政府の公約だったり。景気がいいワケでは決してないから、こういうのは助けてくれない。っていうか手元にないでしょ。あったら苦労しないんですよ、こんなに。

2017年
10月20日
00:13

>>2 >>3 >>4

この3つは関連付けてもう一考したい。

自己責任で、頑張っても報われなくて、個人の価値というのが認められない。
こういう世の中だからこそ、他人の責任を背負ってあげる、頑張ってる姿を見てあげる、人に価値があるということを信じてあげる。

いまそういう世の中だと分かっている人、いない人、それぞれいる。
分かっていても頑張る人、分かっていなくて頑張る人、それぞれいる。そして俺みたいに、分かっていて、あんまり頑張っていないのに、頑張っているように見える人だっていちゃうワケだ。ある意味で理不尽な世の中だけど、ある意味で愉しい世の中なのかもしれないね。


ふと中岡慎太郎の肖像画を思い出した。
めちゃくちゃいい笑顔なんだよな。中岡の肖像画は、笑顔が多い。あれは隣に女がいるからだとか僻んだことを言う輩もいるようだが、ある本に、「お互いに大変だし、苦労するよなぁ、でも一緒に頑張ろうぜ! って励ましてくれそう」みたいなことが書いてあって、まぁ論理的じゃないし単なる妄想なんだが、でも中岡の笑顔には引き込まれるものがある。

何かふと、納得がいった。>>3 これがいまいち、納得いかない論理だった気がしたけど、たぶんこういうことが言いたかったんだと思う。
まぁ他人の責任も背負い過ぎたりはしないし、価値を認め過ぎたりもしないよ。金の問題で責任背負うのは死んでも嫌だしね。
中岡の笑顔と、その説明が、今ここでパッと納得がいったのは、忙しいのは当たり前、どの人も。このくらいの年齢なら。(暇な奴も多かれ少なかれいるけど…)
それを、認めたうえで、俺もさぁ~、大変なのよ。龍馬の奴がトンチンカンやらかして! なんて言えたら、そりゃ「仁徳の人」なんて突然言われるよ。ははは。

2017年
10月20日
23:42

人を煽るのはいいんだが、あくまで行動とか、他人の失敗くらいのものにとどめておくべき。

人の内面まで煽るのは絶対にやってはならない。

やられて気付くセーフティライン。

2017年
10月22日
13:14

風邪を引いたので、暇つぶしにYoutube見てたら、『しゃべくり007』に島田紳助が出た回があったので見ていた。
紳助、嫌いって人も多いけれど、久々に改めて紳助見たら、とても楽しそうにやっているし、何かを考えながら仕事しているという感じでもなかった。本当に、先天的に、あぁいうテレビの仕事の向いている人なんだろうなぁと思った。
テレビ画面では、かなり態度もデカくて、いじり・いじめが散見されるが、テレビの外では、とても徳のあふれる人物なんだろなぁというのも感じ取れた。後輩芸人やスタッフに慕われる人格を、どこかに持っているんだろう。

『しゃべくり』で、「司会者には『愛』が必要やねん」と述べていた。
「ゲストとか、スタッフの1人1人を愛して、その美点を伸ばしてあげるのが大事やねん」と。まぁ簡単に言うと。
「おばかタレント」がブームしたのは、そうした紳助の人の「才」を見たからこそなんだろうな。いま、つるの剛士とか、おバカキャラというよりも多才なキャラだもんな。

いずれにせよ、人を見るうえで、ついつい人格で物事を判断してしまうが、そこに「才」を見てあげなければならない。

2017年
10月23日
19:56

ようやく『朝倉宗滴話記』のコピーを図書館でしてきた。二週間ほど前のことだったかな。
いまやってる歴史解説ブログも飽きて来た頃だし、自分への教訓も兼ねて、解説ブログをぜひしてみたいところだ。

『宗滴話記』は、『孫子』以上に分かりやすく記されている。原文も、近世寄りの文章なので、かなり読みやすい。問題は入手困難なこと。岩波書店あたりで、出版すればいいのにな。

宗滴の逸話だったと思うのだが、『宗滴話記』には載っていなかった。ともかく、こういう話がある。
「1本の名刀を買うくらいなら、100本の槍を買うべきだ」と。「1本の名刀に向かって、100人が槍でたたきつければ、当然勝つのは槍の方である。贅を尽くさず、然るべき物に労を費やすべきである」という話だ。
これを、中学で俺が剣道をやっていた頃、同じ剣道の友人に話したところ、「いや1本の名刀の方が強いでしょ」と答えた。俺はコイツと友誼を交わすのは止めにした。

2017年
10月25日
13:24

昨日、友達とサシで飲っていたら、「仙樹は、多趣味だって自分で言ってるけど、本当のところどうなの?」と言われて、こう思い返してみると、やはり自分は無趣味なのかもしれないなぁ。
読書、映画、落語、観劇、色々やっているけど、やっぱり中途半端だし、カラオケとかダーツとか色々手を出したけれど、自信を持ってコレ! と言えるものがない。強いて言えば旅行が好きだけど、さしてたくさん行ってるワケでもないしなぁ。
あとゲーセン行ってたのが一つかなぁ、と友人に言いはしたものの、あんまり人には言いたくないよね。

風邪引いて、暇な時間が出来た時も、本読んで、ちょろっと仕事して、Youtubeで動画見て、を繰り返してたかなぁ。こう考えると寂しい人だなぁ、俺ってば。
無趣味な人ほど、中身のない人ほど、政治の話とかしたがるしな。

たぶん、何かに打ち込むと、すぐに自分より優れている人を見つけちゃって、頑張っても追いつかないからやめちゃうんだろなぁ。(こう考えると、森鴎外とか大した奴だ。何でも書けちゃうんだもの)
何か打ち込んでるものが一つでもあると、いいよなぁ。あの鴨長明ですら、琵琶だけは肌身離さず持ってたんだし。
俺は…呟きブツブツ続けてるのと、会話付きコツコツ書き溜めてるのと、あと他に何だ? 散歩くらいかなぁ? ダメだねこの人。

2017年
10月26日
01:17

今日、2ヶ月ぶり? くらいに能に誘われたので、行って来た。かななんさん、すまねェ…w ほんとすまねェ…w

今回は「『平家物語』の世界」というテーマだったので、一貫して平家!
平曲で「木曾最期」、狂言で「朝比奈」、そして能「巴」!! 木曾義仲関連が多かったが、良い…! 本当に良かった…!! 言葉が出ん。

一年ぶりに、生で野村萬斎を見れた!! また見れた!! しかも今回は席が間近だったから、3メートルほどの距離で萬斎を見れた!! 本当に嬉しかった!! しかも朝比奈義秀って! 最高か!?w

そして何より語り尽くせぬは「巴」!
巴御前。薙刀を振り回して、木曾義仲の最期の別れ。惜別の想い。本当に良かった。
笛の音は霧、あるいは霞となり、大鼓・小鼓は却って静けさを増し、石や水の音に聞こえる。海のさざ波と言っても過言でない。彼らの発する声は鳥の鳴く音に聞こえる。太鼓はどちらかといえば人の音だろう。話し声、足音、蹄の音、人工の音だ。謡は、謳っているのに、時々、BGMのようになる。声でなくなる、ミュージックとなる。
舞台は「音」によって、世界を形成し、ありありと『平家』の世界になる。木曾義仲の最期と、遺言に従ってその場を離れる巴御前を思えば、涙が出そうだった。
そして薙刀を使うところは本当にテンションが上がった。刀は数あれど、薙刀は多くない。今回は照明器具だったので、刃が爛と輝いていたが、もしも本物の、焚いた火であれば、艶と輝き、ますます愛惜の念を感じただろう。

まことに良かった。本当に良かった。
…そろそろ『平家』を集めなければ。一冊が高いうえに全部集めると膨大になるんだよね、『太平記』もそうなんだけどさ。

2017年
10月26日
09:14

能を見ていて一つ思った。

氷河期に、戦乱は起こるのだ。
あまり天候に関しては詳しくないのだが、太陽変動の影響で、決められた頃に冷害が起きたり、温暖になったりする。(だから個人的には、温暖化っていうのは、二酸化炭素とかの問題ではなくて、定期的なものでいずれ寒くなると思ってる。二酸化炭素が充満してると熱くなるってのは分かるんだけどね)

要は、寒くなれば飢饉が起こる。そして、食べ物がなくなる。
そうなると、飢えを防ぐために、隣の人から奪うしかなくなる。これは個人レベルの問題、あるいは家レベルの問題。これが、村レベル、あるいは国レベルになる、これが戦乱の根源。戦乱の時代に略奪が付きまとうのは、奪うことが必要条件だったからなんだ。大坂の陣、戦国最後の合戦ですら略奪やってんだから。つまり「国家」というものが成り立つ最低限度の理由の一つに、「国民」が「飢え」を全くなくさせることなんだ。日本が平和で、平和ボケしているのは、飢えというものを、太平洋戦争以来全く受けたことがないからなのだ。

例えば三国志の時代、180年代。更にその先の300年ほどまで、メチャクチャ寒かった。だから作物が出来ない。そんな折に黄巾党ってのが、どうやら食べ物を恵んでくれるらしい。こうして戦乱が始まった。司馬氏がそのあとに治めたものの、長く続かなかった。この背景には冷害が収まらなかったことも関係しているとも言える。

それから戦国時代。これはシュペーラー極小期と呼ばれる。これは家康が治めた頃に一時的に収まる。そのあと家光の時代にまた飢饉起こるけどね。

マウンダー極小期を経たのちに、ナポレオンの時代も、冷害が多かった。そう考えると、ロシア遠征ってのは相当寒かったんだろな。

で、これらを踏まえて、源平の頃というのはどうなのか。
以仁王がアレコレ言った、というだけで、あそこまでの戦乱が起こるのか。家族が生きていくうえで、別に戦う必要性というのはないんだ。戦い、そして略奪をしなければならないほどに飢えているワケではない(中世温暖期と呼ばれるらしい)。
何故戦うのか、何故ここに命を懸けるのか、何をしにわざわざ西へ西へ向かうのか。平家というのはそこまで憎らしい対象なのか、自分に何の危害を与えているのか、ただただ、ほんの一部のインサイダーの争いが、ここまで発展する。平家に限らず、木曾もそうだ、義経もそうだ。社会的な理由が、根源的な理由が、ない時代なんだ。生きるのに困る時代じゃない。

そういう時代だったからこそ、「平曲」なり、『平家物語』ってのは出来たんだと思う。このままでは死んだ魂は浮かばれない。
戦国時代の方がよっぽど死んだはずなんだ。けれども、そうしなければ生き残れなかった人がいる。その一方で、この時代は、散る必要のない命だったはずなんだ。
「平家の魂を慰めるため」に作られたと簡単に言うが、その奥にはこういう時代背景があったからこそなのかもしれない。

…ということを、巴御前が薙刀を振り回してるところを見て、そう思った。凄くない?w

2017年
10月26日
23:08

俺は酒好きであって、酒飲みではない。
酒を飲むことも当然好きだが、それだけじゃない。酔ってる自分も好きだし、酔った女や酔った仲間も好きだ。酒の席という「会席」も好きだ。酔っ払いながら人を上手にもてなせた時は達成感で満ちる。
以前言ったが、酒は女だからな。

俺は死ぬ一日前まで、酒を飲んでいたいのだ。

都々逸に、「酒も煙草も 女もやらず 百まで生きた 馬鹿がいる」というのがある。

まぁ、酒を飲みながら死ぬなんて、無様な死に方は勘弁だが。

2017年
10月28日
11:19

どうしても人と付き合っていると、短所が見えて来る。
だがそれは、長い目で見てやり、見逃してやるのが最も良い。指摘したところで直らない。
以前に書いた、しくじりの「可視化」と同じで、失敗して、自分の過ちが可視化されなければ、短所を直すこと、改めることなんて出来ない。(これが老人になっていくと、上の立場になって失敗することが減っていくから、可視化なんて出来なくなる。これが本当の老眼よな)

どうしても、その人の短所を見過ごすことが出来ない。これは得てしてあることだ。そういう時は素直に距離を置けば、それでいい。無理して付き合っても良いことはまるでない、ストレスにしかならない。まぁゲーセンの友人なんかだと働く時間やホームや定期圏内とかの関係で距離を置けないことなんてあるけどね。

ただし。ただしそれでも、最後の最後まで、人の長所を見ることをやめてはならない。人の「才」、「美点」、「長所」。必ずあるはずだ。それを見捨ててはいけない。
…まぁマジで長所がない人なんていくらでもいるけどね。あの人とか、あの人とか、あの人とか。

2017年
10月28日
23:08

これも以前に書いたことなので改めて書くのも妙だが、書いておく。

人に期待するな、ということ。

ウチの中世文学ゼミは俺を入れて男が3人、女が10人。先生はおじいちゃん先生。偏ってる。
男3人はみんな仲良し。
で、ゼミだから発表をすると。発表をするにはレジュメを作る。レジュメを作るには研究をする、と。要は下準備が絶対に欠かせない。これは当然だよね。

発表を任されたのは、男3人。
だが1人だけ、あまり勉強が得意じゃない奴がいる。俺じゃないぞ。
俺は一番初めにやらされた。文化祭で忙しいこのシーズンに! まぁ余裕でクリアしましたが!!
2人目も無事に終わり。
けれど、その勉強できない3人目が、足の靭帯が切れて通院することになって、研究がどうしても出来なかった。大きな病院で診察してもらう必要が出来た。
そのことまでは先生に報告したんだが「大きな病院の診察結果を、また追って報告する」と連絡して、すっかり報告するのを忘れてしまった。

発表日になって、研究できてない、資料できてない、レジュメできてない、発表も当然オジャン。先生はカンカン。
「君は報告すると言ったはずなのに、何故しなかった。報告はメールで出来たはずだ。君は見通しが甘すぎる。今日のゼミの予定が、君のせいで無駄になってしまった」と、こんな具合。

だが、思うんだよ、俺は。
どう考えても、その男は怪我しようがするまいが、発表できるほどポテンシャルが高くない。
俺と男2人目に比べて、知識が足りないのは瞭然で、それくらい先生はご存知のはずなんだ。連絡入れるような男でもない。(とはいえ、友人を大切に思う「才」がある。俺はその「才」で見る。ただ頭使うことが苦手なだけなんだ)
ともかく、常識的に考えれば、他の女に任せればいいものを、何故この男を選んだんだ、先生は。

逆に考えれば、先生はそれだけ期待してたんだ。
この3人目も、俺や2人目に負けぬ劣らぬ努力をするはずだって。
やってこない、と踏む俺と、やれると思う、と期待する先生とじゃ、どう考えたって先生の方が優しい方だ。だから先生は怒ったのは当然だ。あれは教師として叱ったんじゃなくて、人として感情で怒ったんだ。
俺がもし先生の立場なら逆に怒らないし、それどころか発表やらせないよ。

人に期待すれば、それだけ裏切られることも増える。
俺はもう裏切られるのはゴメンだ。だからそう考えるようにしてる。どちらを選ぶかは、人それぞれだ。

2017年
10月30日
01:08

4日ほど前に、女の友人と文化祭の進退について話し合ってたついでに、昔の映画の話になって凄く盛り上がった。楽しかった。

何でか、毛の話で盛り上がってたんだよ。相手、女なのに。
バレエやってたから、全身脱毛を幼い頃からやらされてて~、みたいな話。
「男は、胸毛とかは気にするけどな~」って言ったら、「私、毛深い男とか大好きなの。原田芳雄とか!」って言う話からメチャメチャ盛り上がった! いま振り返ると凄い流れだなww

女「いまの俳優で、こういうタイプはいない!」
俺「佐藤浩市なんかどう?」とか。

それが延びて、小津とか黒澤の話になった。
『秋刀魚の味』を推された。まだ見てないから見たいところ。小津も最近、見ておらんなぁ。
よく考えたら俺はまだ黒澤ほぼ見てないわ。『羅生門』も途中で忙しくて挫折して早1年ほど経ってる。やべやべ。
あと原田芳雄に関しては『原子力戦争』を推された。見ておこう。逆に、原田芳雄のことほとんどしゃべれなかったなぁ。『独眼竜政宗』で初めて見たけど、熱く語ろうとしたのにあんまり語れんかった。悔しい。

2017年
10月31日
23:27

…昨日、初めてブロックが解除されてるの知った。
でも許されてるとは思ってない。悪いのは俺。もう俺から近づくことはしない。

2017年
11月01日
21:22

最近ハマッてるのが『徒然チルドレン』。いいよねェ~。
アニメも全部見てたから、もう最近ってほどでもないか。2ヶ月くらい前から? っていうか書いた気がする、前に。

いいのよ…キャラが!
見ていて不快なキャラが少ない! 恋愛あるあるが盛り込まれてて本当に読んでいて楽しい!
俺もこういう高校生活送りたかったなぁ~…って思いながら読んでる。
みんなで海行ったり、お祭り行ったり、修学旅行ワイワイしたり、凄く楽しそうでさぁ…

それに、陽キャラだけじゃなくて、オタクとか文系女子とか帰宅部とか、色んな部活にフォーカス当たってるし、みんな仲良しでギスギスしてないし、リアリティあってすっごく面白い。読んでて気持ちいい。
宮下英樹先生とか、手塚治虫とか、読みながら考える奴も楽しいけど、のほほんとしたマンガもそりゃ読みたくもなりますよ。ラノベ読んだことほぼないけど。

2017年
11月04日
01:00

文化祭、無事に終了。
やりたかったこと全部…100%ではないけれど、やれる範囲でやり尽して、終わらせることが出来た…本当に充実した半年間だった。
テーマは『遠野物語』。民俗学の礎となった本。民俗学に於けるバイブルだな。

素人向けに作った展示だったけれど、以前に『遠野』をやったOBの先輩や、民俗学を専門にやってる友人も褒めてくれた…本当に嬉しかった。民俗学あんまり好きになれなかったけれど、ちゃんと成果を残すことが出来た。やって良かった。
何より後輩たちのパワーに支えられたおかげ。想像を上回る成果を残してくれた。力も付いただろうし、来年が楽しみ。

あと個人的にやりたかった、柳田国男を演じることが出来たのが、かなり楽しかった。後輩たちに、柳田国男の先輩、って覚えてくれたら嬉しい。

2017年
11月04日
22:53

やはり、文化祭という一つのプロジェクトを担当して思った。
俺は、能力主義なんだ。これが最も都合が良い。

能力主義というのは、実力主義とは異なる。
実力主義は、結果が大事になる。結果を残すかどうかで、話が変わって来る。
能力主義は違う。「能力」の文字通り、能率を重視する。極論を言えば、「やってて楽しいかどうか」なのだ。能率が高ければ、作業効率も上げやすい。好きなこと・楽しいことなんだから、上司としてアドバイスもしやすい。
ただし。人の能力を見出すには、時間が要る。短い時間で人の能力を見出すのは難しい。
それに、ここに給与などが関わってくると、話が難しくなってくる。
給与や福利厚生が関係しない、研究会というメンバーだからこそ、やりやすいというもの。
自分が社会に出てリーダーシップを取る時に、ようよう考えなければならない。

2017年
11月05日
10:15

「貴様になら、殺されてもいい…」

これが、「人を愛する」ということの究極の答えだ。

「悔しさを感じる…」。これが、「貴様を愛する」ということの同義となる。人を愛するということは、総じて悔しいことなのだ。殺されても、そこに悦びすら感じてしまうのだから。充足感、幸福感。これらは総じて、「隙」となる。完全無欠の人間に、それは存在しない。

愛を高らかに論じる者は、それに気付いていない者なのだ。俺もそうだけれど。
それと同時に、その「隙」に気付きつつ、それでもなお、人を愛し、愛されることを望む者。それは、「貴様に殺されてもいい」。そう感じる者であり、それこそが究極。究めに極めきった者のみが許される「愛」なのだ。

人を本気で好きになった時に、感じることの一つが、「どうして好きになっていまったのだろう、自分なんかが!」という感情。
それでも、「それでも、やはり、貴様が好きだ。愛している!」。ここまで至るのだ。

男だろうが、女だろうが。
人を思い浮かべよ。
そして、その人に心臓を、あるいは首を、貫かれたとする。
どう思う?
それに依る。人と、貴様との、間柄が。

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