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[隠れ家・天正院] トピック

2013年08月02日
01:35

解説の宝庫

会話つきブログの解説するだけです。
歴史の勉強になれば嬉しいなぁ。

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97番~78番を表示

2017年
10月22日
23:08

仙樹さんの歴史の授業・補講――女性編1

先日、「Youtube」でてきとーに動画を見ていたら、民主党政権時代の動画で、安倍・麻生が出演していたテレビ番組の動画があった。キャスターが、「再び、総理になりたいですか?」と尋ねると、麻生が「我々が再び政治を司る時は、『有事』である。『平時』ではない」と答えた。結果として、「災後」と呼ばれるこの「有事」に、安倍が政権を握ることとなった。

あぁ成程な、と。政治家には2種類あって、「『有事』に強いタイプ」と「『平時』に強いタイプ」。
戦国時代は間違いなく「有事」だ。いつ緊急事態が起きるか分からないし、いつ戦争が起こるか分からない。緊急事態を、綿密かつ迅速に組んだ対策で処理していく。ついついカッコよく見える。戦争や外交など、外が相手だと強い。
一方で「平時」に強いタイプって、なかなか分かり辛い。過度な好景気・不景気をもたらさないようにする、税を安定して徴収するなど…地味と言わざるを得ない。朝倉義景はこういうタイプだったんだろう。内が相手だと強い。
(武田信玄・北条氏康は、どっちも出来ちゃうタイプだったんだろなぁ)
ともかく、「有事」だと、無能な人間はどんどん排斥されて、有能な人間がどんどん使われるようになる、上へ昇り詰めていく。

では女性はどうなのか。
戦国時代で目立つ女性というのは、「有事」に強いタイプかというと、簡単には分かりかねる。
茶々は、「女性で権力を握るにはどうすればいいのか」→「嫡男を生み、後見に立つ」と。これに成功している。
一方で失敗しているのは、土田御前、義姫、江などで、「嫡男を排斥して、自分の愛する方を嫡男にする」と。道理にはずれていて、いずれも失敗している。

だが成程、「愛」か、とも思った。
やはり腹を痛めて生んだ子。「愛」という観念では、男よりも女の方が、密接なものなのかもしれない。
戦国時代の女性は、「愛」という考え方に於いては率直なように感じる。
女性の行動に対して、「どうしてこういう行動を取ったのか」と考えて→「『愛』だ!!」と強引に論ずることだってでき…出来ねェか…ww しかも何だか、安っぽい歴史番組みたいな結論だよなぁ、これだと。

2017年
10月16日
00:29

仙樹さんの歴史の授業・補講――三成編2

今回のブログを書くにあたって、矢部健太郎氏の本を参考にさせて頂いたが、かなり危険だったのでは、と今更ながらに思う。もちろん納得いく論理の方が多かったが、ところどころに曖昧な憶測や、確証の薄い論が展開されていたので。まぁ今後の研究が待たれるという便利な言葉で誤魔化すとしよう。

三成というより、関ヶ原を考えるにあたって、「三成襲撃事件」というのは、かなり異例の事態だということが考えられる。たった1人の人間を殺すために、7人の武将が兵を動かして、殺害を試みる。そのせいで1人の人間は宇喜多秀家、佐竹義宣、結城秀康ら五大老クラスの人物を巻き込み、大騒ぎになる。嘉吉の乱や本能寺の変などとは偉い違い。刺客を送り込んで、静かにばれないように殺す、とかではない。まるで騒ぎを起こし、混乱させようとした、と考えることも出来る。家康陰謀説は、かなり事実性があるのではないだろうか。

三成は、家康の仕掛けた罠に、全てまんまとハマる。キレイにハマる。
でもこれは仕方のないことなんだ。秀吉・利家を喪った時点で最も戦闘経験と軍事力にあふれていた人物。それは徳川家康を除いて他にいない。今川義元・織田信長・武田信玄・北条氏政と渡り合い、秀吉と唯一、真っ向から戦った(…と、書いたものの、織田信雄だの細川幽斎だの上杉景勝だの、意外といましたね)。この徳川家康という人物を倒すのは、2年そこらでは無理なのだ。もし仮にやるとすれば、三成は朝廷と関わりを持つべきだったのではないのかなぁと書きつつも、これは論理的でないので、別の機会に。

家康に敗れるのは仕方のないこと、と書いたけれど、この「仕方のないこと」を弾き返した人物として、『三国志』の夷陵の戦いで劉備を撃退した陸遜。普仏戦争でナポレオン3世に勝利したモルトケなんかが当てはまるか。陸遜は敵の弱点を見抜き古代的な火計戦術で勝利、モルトケは画期的な通信機器を用いた分散包囲戦法で勝利する。これに比較すると三成は、敵の弱点を見抜く観察眼、柔軟に対処する画期性という点が足りなかったかも。大将よりかは、中間管理職向けかもな。

2017年
10月08日
21:56

仙樹さんの歴史の授業・補講――三成編1

豊臣政権というのは昨今、盛んに研究され、いま話題を呼んでいる。
『真田丸』でも、五大老という言葉は出たが、五奉行という言葉は明確には出なかった。
他にも、三中老(生駒親正・中村一氏・堀尾吉晴)はなかったということが明らかにされている。
奉行衆には、石田三成は当然ながら、大谷吉継や宮部継潤、富田一白なども務めていたことが分かっている。
豊臣政権の狙いは、足利幕府・織田政権の失敗から学んだ故であろう「中央集権」と、「法国家(惣無事思想)」そして「熾烈な実力主義」。
この体制は、江戸幕府にも大きな影響力を与えていく。

特に取次制度がその一例。
相馬義胤・南部信直・最上義光などの史料を見ると、しばしば浅野長政の名が登場して、「取り敢えず浅野弾正に言ってくれ」みたいなことが書かれている。浅野家も大変だったろなぁ。ある意味、徳川の世で藩(地方分権)になってからは、却って楽だったかもね。

後半の貞宗については、書き終えてから、この史料の信憑性が若干、薄いということが分かった。毛利家の史料で、後から石田と昵懇ではなかったという書き加えの可能性がある。ちゃんと確認していなかったので、面目なし。

2017年
10月04日
17:04

仙樹さんの歴史の授業・補講――表象編4

三菱が金持ちな会社! …というイメージは既に失われているか。
かつて、岩崎弥太郎率いる三菱商社・三菱財閥は、金持ちの象徴のように扱われた。森鷗外の『雁』では、東大付近を部隊としつつ、無縁坂を挟んで、片や岩崎邸、片や『雁』のヒロインで高利貸しに身を売るお玉の家、という対比が為されている。自由に金を使う財閥と、身を売る自由のない女性の対比だ。
今川家も似たような感覚で、金のある家というイメージで固まっている。

現代の日本で、家が代々金持ち、というイメージのついた家はなかなかない。そして、そういう家は嫌われがち。
ホリエモンだったり孫正義のような、一代で金を稼いだような人物だと称賛されるが…ドナルド・トランプみたいなタイプは嫌いな人も多い。

成程、トランプと今川義元の姿が重なる、か…いや、さすがに言い過ぎだね。

2017年
09月24日
21:26

仙樹さんの歴史の授業・補講――今川編3

今川氏真が蹴鞠武将となってしまったのは、ほぼ確実に『戦国無双』だろうね。あと『戦国大戦』も。「蹴鞠シュート」という造語も、SEGAが作ったんだろなぁ。それ以前は聞いたことなかったし。
でも『信長公記』を見る限り、妙だとしか思えない。
このあと長篠の戦いを経て、信長は公家たちに蹴鞠の会に誘われる(信長が蹴鞠をしたのかどうかは直接的には書かれていない)。そのメンバーは、氏真たちと蹴った面子とほとんど一緒。つまり、氏真が「蹴鞠をやらせろ!!」って叫んで集まれるメンバーではない。恐らく信長の方から呼びかけがあったか、元々蹴鞠の会があり氏真に無茶ぶりさせられて混ぜられた、と見るべきか。

あと「担がれる武将」、大義名分として利用される武将というのは、古今東西よくいるが、日本人の場合はかなり粗略に扱われることが多い。斯波義銀なんかが特にそれだろう。
氏真も、北条家からそのように扱われた。そして邪魔者扱いされた時に長居せずにさっさと徳川に転がり込み、武田との戦いでの大義名分に担がれる、「担がれ慣れ」していると見て…い、いいのか?ww
いずれにせよ、家康は今川家を終生大事にしていた。これは、氏真が下手に家康の権力を利用しようとしたりしなかったことが起因していると見ていい。家康にとって氏真は、小さいながらもメリットしかなかった。

しかし何より妙なのは、「宗祇の香炉」を持っていながら、連歌の記録がほとんど残っていないことだ。やっぱ今川家はみんな連歌下手なのかな。…これで片づけていいものか?w

2017年
09月17日
21:07

仙樹さんの歴史の授業・補講――今川編2

法律で治める世の中、と考えた時にやっぱりパッと出てくるのは始皇帝と韓非子じゃないだろうか。
以前「呟き」の方で書いたが、やっぱり法律によって縛りに縛られた社会というのはなかなかトラウマだったようで、法の支配というのは日本でも忌避され、儒の支配が重んじられた。『史記』は早い段階で日本に伝わったので、「法の支配」の過ちというのは知れ渡っていただろう。そういう意味で、今川家の法の支配というのは、面白いところである。
支配を広げるうえで重要なことは「支配力」。土地の王が何者であるかをはっきりとさせること。これは近代でも同様で、近代の戦争は、敵国の法律を自国の法律に塗り替えることで支配が成り立つということを加藤陽子が示している。かつてGHQに支配された日本は、憲法が改正された。今川家が遠江をほとんど叛乱を起こすなく治めることが出来たのは、こうした法律によるところが大きいはずだ。豊臣家の支配が安泰したのは検地をしたことがあるに違いない。一方で叛乱がバンバン起こった織田家・上杉家というのは、法律はガバガバ。特に織田家でそれを示すエピソードが「普請はよく相談して、お前らでテキトーにやって」って奴。そのおかげで柴田勝家が北ノ庄城を九層の天守閣(…信長の生前かどうかは怪しいが)とか建てたんだけど、江戸時代だったら、こんなこと絶対に有り得ない。キリスト教を信じるか否か、とかも関係していると思われる。
…今の世の中は法律に縛られて自由が効かないなんてことは思わない。表現の自由、信教の自由、その他諸々は確立されているしね。今川家に支配され、歯車として生きる人々…こう考えると少し怖いところもある。

馴染み深いとすれば、学校の校則とかではないのかなぁ。ウチの高校なんかはひたすらアレもダメ、これもダメだったので、首にワッパが付いたような気分だった。周りの友人に自分の高校の話をすると驚かれるモンだ。でも、校則に縛られてる人って、それが普通だから気付かないんだよね。実際、治安もかなり良かったし。どっちがいいんだろうね。

2017年
09月10日
13:30

仙樹さんの歴史の授業・補講――今川編1

義元の出自というのは、かなり特殊だと言わざるを得ない。
京都に上って教育を受けた武将というのは、他に尼子勝久くらいのものだ。そういえば彼も五男だったな。
義元は、あまりにも武士らしくない武士と言える。信長に勝利していれば、間違いなく天下の有力大名となっていたはず。江戸幕府も、軍事は武田を、内治は今川・北条を手本にしていたことが読み取れる。しかしその異質性故に、義元が急死してからコントロールが効かなくなって、氏真は倒れることとなったと考えることも出来る。そのくせ合戦も、河東の乱や小豆坂で勝利(というか一定の戦果)をあげているのだから戦国大名として申し分ない。
軍事力を持たない現代日本も義元に見習うべきことは多い。中韓が襲い掛かって来るならば、南のベトナム・フィリピン・タイ・インドネシア・台湾と友好を結んで牽制する。かつ、貿易で日中・日韓ともに互いに黒字を出し続ける。こうすれば下手に中韓は日本を攻撃することは絶対に出来ない。かつて第二次大戦期に、アメリカが日本への石油輸出をやめた結果、日本は2~3年で一気に貧しくなった。経済封鎖というのは、甚大な被害が出る。一気に時代が近代から逆戻りしていく。しかしそれでもなお日本は攻撃することを選んだ。経済封鎖というのは、平和主義的なやり方ではない。今川とて武田に経済封鎖を行った結果、全力で駿河を侵略しに来た。経済封鎖というのは、戦争に引っ張り出す方法としては最適やもしれないが、戦わずに降伏させようとする点では間違っているのかもしれない。とはいえ、鳥取城餓え殺しの例もあるから、もしも経済封鎖をするなら絶対に勝利する約束を持って…ってこれ完全に義元の話じゃないですね。
いずれにせよ、義元のやり方、私は好きです。こういう時代だからこそ再評価されたんだろうね。

2017年
09月04日
16:09

仙樹さんの歴史の授業・補講――表象編3

謙信女性説は、かなり信憑性の低いものとして、桑田忠親あたりからバッシングされまくったが、桑田の著書はワリとアバウトなことがボンボン書いてあって、批判するワリに人のことあんまり言えてない。まぁいまの史学というのは、この世代の間違った捉え方を否定していく時代。謙信女性説も、かなり新史料が待たれるところだ。
特にヒゲがない肖像画というのがかなり驚かされる。当時の武士は、ヒゲを生やすことがマナーとされていた。秀吉が付け髭をしていたことで、その重要性が分かる。
しかしこの肖像画も、焼けて現存していない。肖像画を撮影した写真(すなわち二次史料)しか残されていない。

歴史の事実というのは、なかなか簡単に判明しない。信長の傍に、太田牛一とフロイスが控えていたこと。家康の傍に松平家忠と大久保忠教が控えていたことは、とても幸運なことだ。謙信は側近というものを持たなかったし、私生活も毘沙門堂に籠るなど、独りでいることが多かったから、記述が少なくなったり伝説化するのも無理はない。特に戦った相手が江戸時代のスター・武田信玄様ですからね。(ある意味、現代の「描かれたヒトラー」や「描かれたチェ・ゲバラ」もこういうポジショニングな気がしないでもない)
謙信が現代にいたら、おかしな宗教にハマッて信者を集めてる人にしか…え、オーム真理教…?

2017年
08月27日
21:53

仙樹さんの歴史の授業・補講――上杉編4

上杉謙信は好きな武将の1人なんだが、いかんせん狂信的なファンが多くて、こうしてブログを書くのは少し怖かった。
人によっては、合戦をカリスマ的かつ正々堂々とした力で勝利していく軍神としての謙信が好きだと言い、(否定すれば怒り、)
人によっては、美しく穢れた卑怯さのない謙信が好きだと言い、(否定すれば怒り、)
…上杉謙信という偶像は、正確に伝わらなかったからこそ、みーはー的な理想像のようなものが勝手にできあがり、史実と異なる人間像を浮かび上がらせてしまった。
そういう謙信の方が私は好きなのだが、だからこそ史実をしっかりと知っておかなければならない。好きなものを好きだと言うのは悪いことではないが、好きなものが万人共通で正しいものとは必ずしも限らない。他人から受けるイメージというものも大切にしなければならない。

愚痴はここまでとして、謙信の合戦についてだが、意外にも謙信の戦いではっきりと史書に残っているものは多くないので、書くのに難儀した。謙信の博物館では、槍足軽を重用していることが非常に興味深かった。比較として、武田軍が騎馬隊を、北条軍が騎馬・槍・鉄砲をバランス良く、でも比率的には鉄砲多めの編成かな。を、見て驚いた。
ともかく、あんだけ強いのに、政策や方針もかなり曖昧なところが謙信には多かった。前半生は特に叛乱者も多かったが、結局のところ乱世に大きな武力というものは必要不可欠なんだろうということを、謙信は教えてくれる気がする。だからこそ謙信亡き後に御館の乱が起きたワケだし。家督騒動であそこまで長期的な二項対立が起きるのはかなり珍しいと思うぞ。応仁の乱ほどじゃないけどさ。

2017年
08月20日
23:40

仙樹さんの歴史の授業・補講――上杉編3

30万石の大名というのは影響力が大きいはずなのに、幕末でほとんど活躍しないのは何でやねんと思ったら、15万石に減俸されていたということを今回学んで分かったんですわ。そのあとの戊辰戦争では、恐らくかつての関ヶ原での失敗をトラウマにして、和睦を頑張ろうとしたのに新政府に睨まれるって可哀想すぎる。

上杉景勝は、後継者としての正当性がなかったぶん、かなりコンプレックスがあったに違いない。個人的にはよく勝頼・氏政あたりと比べている。

勝頼――正当でない後継者。重臣たちの影響力に悩まされて失敗する。
氏政――正当な後継者。重臣たちとの基盤が強かったぶん、小田原征伐で失敗する。
景勝――正当でない後継者。重臣たちを排斥して新しい基盤を築いたので成功。

上杉景勝時代に活躍する家臣は、直江兼続、須田満親、色部長実といった、謙信時代にほぼ無名だった家臣たち。
一方で斎藤朝信、甘粕景持、上条政繁などは精彩を欠く。水原親憲くらいじゃないかな。
色部長実(揚北衆)、須田満親(信濃衆)などでも重用する方針が、実力主義がよく表れている。そのぶん、藤田信吉、大国実頼のように、家中での分裂もあったので、オールグリーンとも言い難い。兼続への独裁体制も高まっていると見ざるを得ない。長谷堂の戦い終了後の絶望感ったらないだろう。
大坂の陣では、兼続の態度に、安田や水原が反感を抱いたというのも、兼続政権の崩壊がある意味で顕れているのかもしれない。
それにしても、もうちょっと柔らかいタイプの人間を重用してバランス取った方が良かったろう。藤田や大国は、柔らかタイプのはずなのに…これもある意味、謙信が築いた「上杉家」というビッグネームから来るコンプレックスか。2代目って辛い辛い。

2017年
08月13日
23:35

仙樹さんの歴史の授業・補講――上杉編2

足利幕府というのは、案外支配が寛容というか。江戸幕府のようなガッチガチの法度を作ったワケではない。もちろんちゃんと法度はあった。「建武式目」である。しかし完全な法律書というべきものではなかった。何というか…「こういう風にやるんだぞ」とか、目標くらいのものであった。法律というのは、そうではなくて、民法・商法・刑法・政法…他にもたくさんあるが、たくさんを埋め尽くさなければならない。
だから、足利幕府というのは、「建武式目」に書かれていない事故が頻繁に起きて、たびたび裁判を開いている。でも、無能な将軍とかだとテキトーに始末してしまう。テキトーな始末をすれば、支配が緩んでいく。その結果がまさかの戦国時代。
以前別のところで書いたが、司法が弱まると、こういった手に負えない叛乱が起こる。司法を機能させるには立法機関が肝要。立法機関を機能させるには行政機関が肝要…ってことは小学生でも知ってるね、三権分立であります。
こういった失敗を見た江戸幕府というのは、司法に関しては非常に厳しく取り締まった。ある意味、規制や検閲の強い国家だったかもしれないが、そのぶん統治は安定していた。

2017年
08月07日
14:00

仙樹さんの歴史の授業・補講――上杉編1

偏諱というシステム、研究書を探せば見つかるだろうが優しい本に書いてあることはなかなかないと思われるので、ここにまとめておく。

基本的に江戸時代までの人名は漢字2文字。
例えば「織田信長」。
「信」は家の魂の宿るところ。なので代々伝わる。
「長」は自身の魂の宿るところ。なので他の織田一族は基本的にこの名前を名乗ってはいけない。(例外として伊達政宗、相馬義胤などがいる)

偏諱で基本的に与えるのは「自身の魂」側。特に足利幕府は顕著。
赤松満祐、「満」は足利義満から。(3代将軍)
山名宗全、本名は山名持豊。「持」は足利義持から。(4代将軍)
細川勝元、「勝」は足利義勝から。(7代将軍)

しかし、レアなのは「義」をもらうパターン。これは一考した方がいい。
今川義元、朝倉義景、最上義光、島津義久、相馬義胤…
「家」の魂を頂くので、実質は将軍家と同等の扱いですよと言っているようなもの。

江戸時代以降、これは崩れていき、ワリと自由になっていく。

名前というのは重要な意味を持っていることを忘れてはならない。
あと面白いことに、基本的に同じ名前を名乗ってはいけないから、足利家のような古くから伝わる家だと、名前のパターンがなくなって、面白い名前がたくさん出て来る。
「義量」「義視」「義稙」…
「義輝」もなかなか珍しい。「輝」の字を義輝からの偏諱以外で名乗っている人物もそういない。

そういう意味で、ちゃんとした名前を子どもに付けてあげようね。
どうでもいいが、私の家の通字は、清盛からもらったので「盛」。ってよく考えたら「家の魂」側だよ。すげーな。でも「盛」って名前付けるの難しいな。1歳、2歳の子に向かって、「清盛!」とかって呼ぶのそうとう恥ずかしいぞ。

2017年
07月10日
01:35

仙樹さんの歴史の授業・補講――秀長編1

どこの国でも、必ずしもトップが軍事に長けているワケではないので、軍事大臣を設置するワケです。
分かりやすいのは朝倉家。
宗滴以来、朝倉家は軍事大臣のポジションを置いていた。宗滴死後が、朝倉景隆、その子の景健がやっていたが、特に景隆は一向宗討伐に失敗。当主の義景は別に弱腰だったワケではなくて、義景の感覚からすれば、合戦は大臣に任せるのが普通だったのだ。

同じことをしていたのが尼子家。いわゆる新宮党と呼ばれる一党であり、尼子国久、その子の尼子誠久などが率いていた。しかし、軍事的な力を背景に家中で勢力を伸ばし、国論が乱れたので最終的には粛清されることになった。だが軍事的に優れた大将を失った尼子家は、毛利家に駆逐されることになる。新宮党ポジションを継いだのが、山中鹿之助と言っていいかもしれない。
大日本帝国でも、軍部が権力を握って、方針に乱れを生じた結果として敗戦へつながった。

秀長というのは、そういう軍事大臣だった。恐らく豊臣家中には「秀長派」みたいなのがあって、独自の派閥があったんだろう。神子田とか宮田とか尾藤とか、豊臣政権確立までに滅びて、いまいちポジショニングの読めない武将が何人かいるし。彼らが「秀長派」だったんだろな。
少なくとも「宇喜多秀家グループ」というのはあったようで、この中には小西行長と仙石秀久、黒田如水も入っていたようだ。四国征伐でこの四人は共闘している。淡路征伐で仙石と黒田が一緒に行動。更に関ヶ原まで小西と宇喜多は行動している。(小西が元・宇喜多家臣なのが遠因なだけやもだが)
「秀次グループ」は山内、田中、堀尾、前野あたりか。「秀次グループ」の小身は、「三成派」の傘下へ移る。

かつて足利尊氏も、尊氏派・直義派に軍事と政治を分けて差配していた。
日本はこうやって分けて差配することが多い。欧米は違うことが多いけど。

ブログにも書いたけど、秀長存命で朝鮮出兵が行われれば、朝鮮に行かされたのは秀長だっただろうね。

2017年
07月03日
18:43

仙樹さんの歴史の授業・補講――秀長編1

イメージの変容という意味では、秀長は大きく変わった武将と言っていい。
秀長には当時からマイナスイメージのつく性格はなく、表で雅に動く秀吉とは対照的にサポート役として動くイメージから、地味さや目立たなさのようなイメージが自然とくっついていき、現在のようなイメージが出来上がったのではないだろうか。

これは物語における「弟」というポジションをよく考察する必要がある。『末子成功譚』とかね。
ちょっと関係ないかもしれないけれど、一応まとめておく。
『シンデレラ』タイプ…兄姉がいじめてくる。『落窪物語』など。
『三匹の子豚』タイプ…兄姉が失敗。弟だけが活躍。『ONE PIECE』もこれかな。
『うちはサスケ』タイプ…兄弟喧嘩。『タッチ』とか『宇宙兄弟』とかもこのタイプかなぁ。

大体、英雄の兄弟というのは仲が悪いイメージが強い。
源頼朝・義経。足利尊氏・直義。織田信長・信勝もしくは浅井長政…
逆に、仲がいい兄弟というのは、語られないことが多い。秀長は、その被害者の代表的な一人なのかもしれない。他にも楠木正成・正季とか、坂本権平・龍馬とか。

あと「托鉢」に関してはほぼ「知ッタカ」なので、間違っている可能性大。ごめんなさい。

2017年
06月18日
18:53

仙樹さんの歴史の授業・補講――表象編2

本来であれば、家康に勝利した勢力ということで規制を強めるところを、敢えて賛美することで、徳川のイメージを貶めない、徳川幕府の調整力の鋭さよ。
「士農工商」「穢多非人」の身分制度について、中国人の友人に解説した時、「農」が2番目に来ることに驚いていた。まぁ現在は否定されているけれど。

しかし、『甲陽軍鑑』についての信憑性が、かなり疑わしいとされているので、信玄のイメージが史実かどうかは疑わしい。しかし、信玄の圧倒的なカリスマがあったのは間違いないだろう。一番根本となる史料が疑わしいというのは嘆かわしい。

そういえば『COJ』で青色の武田信玄が出て来たことに凄くビックリした。でも逆に、「イメージと全く合わない武将の喩え」で引き出しやすいので、私は助かっている。
信長はギャグキャラ、謙信は女体化が進んでいて、崩れつつあるのだが、信玄は本当に未だに崩れない。これは主人公性がやっぱり薄いからなんだろう。新田次郎以来の、イメージがらりと変わる信玄を出さない限り、信玄はこの先もずっと、先生ポジのままだろう。かといって史実を掘り下げてみると、温泉大好き153センチの骨野郎だったワケで。
なので、和歌から、恋愛につながるようなものを…と調べてみても、ちっとも出て来ない。
仮にイメージを一新させるとすれば、「信玄の恋」なんだろうが、いまいち掴み切れていない。先生ポジということは、それだけその本人の心とか、情とかが見えて来ないんだろう。そのくせ高坂に謝った手紙だけ残ってるし。信玄の恋を描いているのは『風林火山』くらいのものか。でも井上靖は難しいんだよね。まぁここは敢えて、里美とか望月千代女と結ばれる系のものを書くかなぁ、俺なら。千代女との間に生まれた子供が、猿飛佐助だった、みたいな? 無理やりすぎ?

個人的に、信玄と女謙信の恋は大嫌いだからやめてほしい。あの二人はいがみ合っている方が面白いと思うんだよね。

2017年
06月12日
16:56

仙樹さんの歴史の授業・補講――武田編3

従属というシステムは、正式な守護大名ではない(まぁ後にそうなるけど)武田家にとって、選択せざるを得なかったシステムと言えるだろう。
とはいえ、信長は敵対した大名を殺して、奪い取って、支配力を高めていたので、信虎は敵対勢力を殺さずに奪い取るぶん、優しいような気もする。

ただし、これには反論がある。
自分の勢力と、敵対勢力を比較したとき、敵対勢力の方が統治能力が高かった場合。
敵対勢力の長を殺したら、敵の下級武士であったり百姓であったりは、叛乱を起こす。統治能力の差で劣るから。
要は、信虎は、統治能力にやはり欠陥があった。というか山ん中の甲斐国では、米の生産能力に限界が生じる。だから従属という形で、当地・支配は、有力者に任せざるを得なかったのだ。
その点、信玄は治水を最優先した。統治能力の補完を行ったワケだ。


さて、甲斐国を追放されたあとの信虎の研究は、滞っていると言わざるを得ない。(あんまり自分も調べていないけど)
信虎は信玄に協力的だった、みたいなことを書かれた解説を見たこともあるが、そんなはずはない。
Twitterに、「信虎から、謙信に贈られた刀が見つかった」という情報が入って来て驚いたが、これを、「敵に塩を送る逸話をされた信玄が、謙信へお礼のために、信虎を通じて刀を差し上げた」とかいう解説を聞いて、首が90度傾いた。意味分かんなくない、そのルート。
これは恐らく、信虎が、公家や将軍家の窓口的な役割を果たしていた可能性はないだろうか。かつて公家と高師直のつなぎ役を果たした兼好法師のような。

公家と武家の間というのは、常に対立軸にある。
武家は教養がなければ公家社会に入れない。公家は武力がなければ武家社会に入れない。
武家の中に入れた公家は、北畠・西園寺・近衛前久のみ。公家の中に入れた武士は、平家・豊臣家・足利義満くらいのもの。
そういう意味で、京都にすんなりと入ることの出来た上杉謙信という大名は謎の謎。これの取次を、武田信虎もしくは小笠原長時あたりが買って出たんじゃないのかなぁ、というのが個人的な予想。

信虎研究、進むといいなぁ。

2017年
06月05日
18:35

仙樹さんの歴史の授業・補講――武田編2

勝頼のイメージは、凡人というのが一般的だったが、再評価が進んだこともあって、『戦国大戦』では、「若さ」「未熟さ」を意識したキャラクターになっている。カッコいい勝頼のイラストに、嫌悪感を抱くプレイヤーは少ない。
うにゅさんは、おバカキャラ設定にしていたから、まぁやっぱり頭のいいイメージではないんだろなぁ。統率力も3しかないし。

最近、「帝王学」というものに興味を示している。
『光源氏になってはいけない』という本で、『源氏物語』の桐壺帝は、宇多天皇をモデルにしているのだが、この宇多天皇というのは、先帝がある事件を起こしたために、不慮の事態から天皇の地位を獲得した。つまり、「帝王学」を学んでいない天皇なのだ。これは桐壺帝も共通する。
勝頼も、そういう人間だったんだろう。

普通の天皇や、「トップになるはずの人間」には、外戚であったり、サポート役が欠かせない。それは、前のトップが、次の世代の体制を盤石にするために付けたり、或いは逆に下の方から、次の世代を予測して近づく者もいる。勝頼らは、こうしたサポート役を「授からなかった」トップなのだ。
安定したサポート役がいないと、政権は長く持たない。良かろうが悪かろうが、政治をすると、基盤が弱いので反感を買ってしまいやすいからだ。

宇多天皇は、藤原政権の始まりの時期だったにもかかわらず、菅原道真という人物をブレーンに採用した。だが彼は結局、宇多天皇の次の世代。醍醐天皇の時代に、藤原時平によって大宰府に追放されてしまう。

勝頼も似たような性格。諏訪家出身だったので、諏訪家をブレーンにしたいところだが、山県・馬場・内藤といった武田家家臣(しかも信虎時代の家臣だった家を継いでいる者たち)とのバランス調整がうまくいかず。諏訪家歴代の家臣は信玄が排斥してしまった。だからブレーンとして、長坂釣閑斎や真田昌幸という、外の者に頼らざるを得なかった。これが勝頼の基盤の弱さを象徴している。
滅亡するにしても、勝頼は裏切られる人数があまりにも多い。これは北条氏政とは異なる。やはり勝頼は、優れた人間だったが、帝王学がなかった。

これは昨今の総理大臣にも言えることで、安倍・福田・麻生・鳩山・菅・野田。彼らも、「帝王学」や「なる覚悟」を持たずに政権のトップの座へ昇ってしまった。だから、長く政権が続かなかった。
今の安倍政権は、菅、麻生、石原、岸田といった、「安定の面子」「安定した基盤」が見受けられる。ニュースでこれ以外の国務大臣を、まぁ見ない。

さっきの『光源氏になってはいけない』では、支える側が、「トップになってしまったトップ」「なる覚悟のなかったトップ」を、温かい目で見守るのが建設的だ、という旨の言葉で締めくくっている。つまりここで言うなら、山県・馬場・内藤らに責任がある、と。そして実際、長篠の後の高坂昌信らの活躍は精彩を欠く。無理がある理論だとは思ったけれど、これがいいんだろなぁ。ブレーン側に入った人間の、バランス調整。でも菅原道真すら失敗したことを、我々がカバー出来ますかねェ?ww
とまれ、こういう事態は、我々が社会に出てからも度々目にする。実際いまのバイト、店長が変わってバタバタしてるし。


…とまぁ、いくら何でもこの話は難しすぎる。もっと短く分かりやすくまとめられるようになったら、書くことにしよう。

2017年
05月29日
11:23

仙樹さんの歴史の授業・補講――武田編1

肖像画の話もあるけれど一度置いといて、病気の治療について。
『徒然草』には、ちょいちょい薬学の話が載っている。そこに書いてあることは、そのまま戦国時代でも行われていたと考えられる治療が多い。日本で「医学」という学問は、なかなか発展しなかった。「薬学」は発展していたけれど、ほぼ中国から教えてもらったことが大半。

徳川家康の趣味が「薬を作ること」っていうのはワリと知られたエピソードだけれど、現在で「薬作ることが趣味なんです」って人はいない。でも「健康に気を遣っています」って人は多い。健康でいられるにはどうすれば良いのか、という問題を、人間は薬を使って治療していた。
「病は気から来る」というのは、兼好法師も同意見だったようで、恐らく大抵の人はこれを信じていた。「病魔」という言葉もあるし。呪い≒病気、という関係を考えていたんだろう。病気になるのは、呪いだから仕方がないので、薬で対抗しよう、という考えだと思われる。

信玄と関係ないね、コレ。

2017年
05月01日
11:37

仙樹さんの歴史の授業・補講――表象編1

信長の表象。
先日、新しい『信長の野望』のパッケージに真田幸村が描かれていたんだけど、馬上筒を構えていた。これは明らかに『真田丸』の影響。
『軍師官兵衛』で黒田官兵衛も最近はカッコよく描かれることが増えた。
特に影響大きかったのは『風林火山』で、あれ以来、上杉謙信女性説も活発化、今川義元もイケメン化が増える。大河ドラマの影響力って大きいなぁと思い知らされる。黙れ小童ァ!!

意外と、自分の憶測がたくさん入り混じっているので、あんまり本気にしてはいけないブログだということを覚えておいてほしい。

そのうえで、1980年代変わらない信長、1990年代魔王化信長、2000年代魔王信長浸透、2010年代ギャグキャラ化、というきれいな流れが見えたので素晴らしい。
(いま書いている)信玄は、全く反対の道を進んでいるのもまた面白い。
『信長協奏曲』が受けたのも、このギャグキャラ化というか、今までにない信長像だからこそなのかも。個人的にはあんまり好みではない。

西洋文学が入って来た明治時代に、カエサルと信長の姿を重ね合わせたのも、信長人気の火付け役なのかもしれない。風雲児で、裏切られて死ぬ。
「部下に裏切られることの美学」みたいなものは、江戸時代の「主従」という関係では、考えが及ばないんだろうね。主君も情けないし、部下も悪い、みたいな。
あとは日本人的な思想で、誰かより抜きんでる、積極的改革、みたいなものは嫌われがち。武士という身分の人間にとって、信長は尊敬の対象ではなかったんだろうね。

2017年
04月24日
18:20

仙樹さんの歴史の授業・補講――織田家編3

自分の思う最強の戦闘指揮官は、間違いなく白起。四十万の大軍を生き埋めなんて有り得ない。これを上回る日本人の指揮官はいないはずだ。
日本での最強の指揮官は…パッと思い付いたのは、武田信玄かなぁ…探せばもっと凄いのいそうな気がするけどな。あとは太田道灌とか…

信長が優秀なのは間違いないが、これには政治家としての有能さが拍車をかけている。政治も軍事も経済も文化も、ひとつながり。これが意外と理解するのが難しいんだ。

信長が本気で神懸かった戦いを見せてくれたのは、刀根坂の戦い。それ以外の戦いは、ほぼギリギリ勝利のところが大きい。特に天王寺以降はマジで合戦に出なくなるし。
むしろ信長本人は戦いが苦手だったんじゃないかな。苦手というか、嫌い。やりたくない。
だって今まで築き上げた政治経済が一気に吹っ飛ぶ可能性だってあるんだし。逆に、政治経済で勝利を確定させてから戦場へ行く。まぁこのやり方は秀吉も信玄もやってたことか。

信長の戦いの巧拙は、普通よりちょっと巧い、基礎基本は全て分かっている、くらいのもので、天才的レベルで巧いワケではない。と、そんなところか。
大体、そういう天才レベルじゃない人は、何かで穴埋めをするものだよね。まぁその大概は謀略なんだけど。

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