国内初のカラー画面を採用した携帯ゲーム機

“SEGA CONSUMER 30th ANNIVERSARY BOOK”ゲームギア編/“生みの親”である矢木氏が開発秘話を語る!_01
矢木博(やぎ・ひろし)氏
株式会社セガ 開発統括本部
第四研究開発本部
1950年生まれ。1975年、セガに入社。NAOMI、やChihiro、MODEL2、MODEL3といった、セガが誇る数多くのアーケード基板の開発に携わる。AM製品開発本部長などを歴任。

 セガが家庭用ゲーム事業に参入して30年。週刊ファミ通2013年8月8日発売号には、これを記念して、セガハードの魅力を紹介する別冊付録“SEGA CONSUMER 30th ANNIVERSARY BOOK”が付いている。この付録に掲載している、セガの矢木博氏が語ったゲームギア開発秘話を紹介!

 セガハードでは、最初にして最後の携帯ゲーム機であるゲームギア。国内では初めてカラー画面を採用し、“TVオートチューナーパック”をセットすれば液晶カラーテレビとしても利用できるなど、多目的で活用できるゲーム機である。この開発に、基板の設計はもとより、デザインや制作過程の管理までそのすべてを手掛けた、まさにゲームギアの生みの親が、矢木氏だ。多くのアーケード基板を開発した矢木氏が、このハードで挑んだことは?

ゲームギアの基板はいちばん考えました

――ゲームギア開発のきっかけは何だったのでしょうか?
矢木博氏(以下、矢木) ゲームボーイとATARIのLynX(リンクス)の存在です。これらに勝てる携帯ゲーム機を作りたいな、と。画面の大きさは3.2インチにしてカラーの液晶に、重さはLynXの800グラムとゲームボーイの270グラムの中間となる、500グラムを目指しました。TVチューナーも当初から付ける予定でしたね。

――ビデオ端子が付いている点も注目ですね。
矢木 AV端子を付けたのは、“パーソナルディスプレイ”というコンセプトがあったからです。ゲームギアがあれば、お子さんが家庭のテレビを独占することなくゲームが遊べるという、メリットがあるなと思いました。さらに、いろいろなものに接続できれば、もっと幅広い層に波及するのではないか。そこで生まれたのが、“アフター・サムシング”というコンセプトです。たとえば“アフター・スキー”。スキーに行って、ビデオを録る。ところが、当時のビデオカメラのビューファインダーは白黒で、皆で見られるようなものではなかった。でも、ゲームギアにつなげれば、カラー液晶で視聴できるんです。何らかのエンターテインメントを提供したいという思いが、AV端子につながった。どう使えば楽しいか、つねに考えていましたよ。

――手で持てる大きさのハードに高機能を凝縮するというところにこだわりがあったんですね。
矢木 重さはとくに重要でした。手に収まって安定する500グラムと、安定しない500グラムっていうのがあるんですよ。重さの配分を確かめようと、段ボールで縦型のモデルを作ったんですが、安定が悪い。横型にしてみたら、非常に安定がよかったので、この形になったんです。

――据え置き機ではあまり考えなくてもいいような、耐久性も考えないといけないですよね。
矢木 たとえば、ユーザーはジョイスティックの部分を強く押しますよね。初期のゲームギアの基板は4層ボードです。ふつうの家庭用ゲーム機の基盤は、表と裏しかない両面ボードなのですが、これは内層も含めた4層ボードで、かつ軽くするために、通常は1.6ミリの厚みがあるところを1.2ミリにしました。基板がたわみやすい分、裏側に台を作って、へこみが生じないようにもしました。スケルトンのモデルを作って中を見ながら、部品がぶつかるかどうかというところまでチェックしました。ふつうはやりませんが、部品の高さを示す等高線みたいな図面も作りましたよ。本体の場所によって高さが違うから。据え置きハードでは3ミリの厚さのABS樹脂を使っていたんですが、軽量にするために2ミリのものを使った。そうすると、強度を増すためにリブを入れなきゃいけない。リブがあるところは1ミリほどの高さが生じるので、そこを避けて部品を配置しようと。

――パズルのような感覚ですね。
矢木 僕もいろいろな基板を手がけましたが、これがいちばん考えた基板ですよ。

――それだけ精密に作っていると、開発途中でトラブルも多かったのでは?
矢木 当時、おもちゃショーでゲームギアをお披露目したんですが、直前でトラブルが発生しましてね。液晶画面とIC基盤は、100ピン以上のフレキシブル基板で接続していたんですが、つないだIC基盤をケースの所定の場所に固定すると、液晶画面がそこに取りつかない。フレキシブル基板の寸法が間違っていたんです。しかも、フレキシブル基板は100ピンもある幅の広いものだから、ケースに収まらない。青くなりながら、何とかくっつけようとしたんですが、ダメで。設計を変更する時間もないので、フレキシブル基板がケースに入るように、ケーブルを短冊のように切ってバラバラにしました。無理な力を入れると熱圧着が剥がれてしまうので、そーっと。

――もう外科手術ですね(笑)。バックライトの採用を迷ったりはしませんでしたか?
矢木 バックライトは、液晶モニターならつけざるを得なかった。バックライトで暗いところでも使えるというのはメリットでもあるのですが、デメリットはバッテリーの駆動時間でした。ちょっと失敗したかなと思うのは、バックライトを明るくし過ぎたことですね。炎天下でも、ある程度は見えるようにしたかったんです。暗くしようと思えばできたんですが、巷の液晶テレビを見て、暗いのは嫌だなって。海でビデオを録ってその場でパッと見たり、海でテレビを見たりできたらいいなぁと。

――当時のセガハードは、設計する方の職人技や熱意が反映される時代だったんですね。
矢木 おもしろかったですよ。こういうハードを作るのも初めてでしたし。必要なものは、チューナーパックも含めて、すべてを兼ね備えているようにしたわけですから。

――現在、矢木さんは開発統括本部でどのようなことを手掛けられているのですか?
矢木 ゴルフシミュレーターのプロジェクトなどに携わっています。もともとアーケードの基板を開発していたこともあって、海外との交流もありますし、新しいことに挑戦してきたので、いまでも新技術は気になりますよ。

※インタビューのほかにも、貴重な画像などが満載の“SEGA CONSUMER 30th ANNIVERSARY BOOK”は、週刊ファミ通2013年8月29日増刊号(8月8日発売)に付録されています。気になった人はいますぐチェック!